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徳之島地域かごしまの“食”交流推進協議会などが主催する「赤土新バレイショ」料理コンクールが十二日、徳之島町のJAあまみ徳之島事業本部研修室であった。コンクールには三部門に合計三十一作品の出品があり、新田和枝さん(天城町)の「揚げじゃがサラダ」=副菜部門=が最優秀賞を受賞した。今年が初開催。徳之島の主要農産物「赤土新バレイショ」を活用した料理メニューを募集し、バレイショのPRに活用すると同時に地産地消の推進に役立てることを目的としている。 「主菜・主食」「副菜」「菓子」の三部門に分けて審査。十五人の審査員が、(1)徳之島産食材の活用状況(2)調理技術(3)食味(4)栄養(5)独創性(6)普及性─の六項目を審査した。 最優秀賞に輝いた「揚げじゃがサラダ」はフライドポテトにハンダマ、トマト、キュウリ、レタス、煮干などを加えてドレッシングで味を調えたもの。講評で審査委員長の大河たみ子徳之島栄養士連絡協議会会長は「どれも心がこもった作品でネーミングも良く素晴らしかった。地域の方々にレシピを紹介する広報活動のほか、ワンランク上の商品化にもつなげていきましょう」などと語り、関係機関に協力を呼び掛けた。 |
龍郷町長雲峠の奄美自然観察の森で十二日、ヒカンザクラの開花宣言があった。昨年より五日早い。周辺には二―三分咲きが十数本あり、今月下旬ごろが見ごろとなる。ヒカンザクラは花が下向きに咲き、ソメイヨシノなどより長く花を楽しめるのが特徴。同森のヒカンザクラは昨年末から花が開き始めた。「正月明けの寒波で一時止まったが、ここ数日の好天で開花してきた」 駐車場脇の樹下で同町の岡江純一郎助役が「いよいよ花見シーズン。大勢の人たちが心待ちにしている」と開花宣言した。沖縄県の名所・本部町より一週間ほど早い宣言。同森周辺には約五百本のヒカンザクラがあり、今月下旬ごろが見ごろで、来月中旬まで楽しめるという。 |
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| 徳田毅衆院議員秘書の禧久伸一郎氏(50)は十三日、奄美市で記者会見し、任期満了に伴う今年四月の鹿児島県議会議員選挙で大島郡区(定数二)に立候補すると表明した。無所属での出馬表明だが「代議士が自民の選挙区支部長でもあるので」と話し、自民党からの出馬に向けて調整していく意向を示した。 禧久氏は宇検村宇検出身。拓殖大学商学部卒後、医療法人徳洲会東京本部入り。一九九〇年から徳田虎雄元衆院議員秘書、二〇〇四年から徳田毅氏秘書。現在、徳洲会鹿児島本部事務所長も務めている。八五年の宇検村長選、九五年の県議選鹿児島市区に立候補し、いずれも落選した。近く鹿児島市から徳之島町へ転居し、同町に運動拠点を設けるという。 会見には徳田氏を支援する自治体議員でつくる奄美群島市町村振興議員連盟(九十六人)の幹部が同席。禧久氏は「議連のみなさんから市町村、県、国とつながるパイプになってくれと強い推薦があった」と出馬理由を説明。同議連や徳洲会グループなど徳田氏の支援組織を基盤に選挙運動を展開していく考えを示した。 県議選大島郡区には他に現職で自民党の金子万寿夫氏(60)が五期目を目指して出馬する意思を表明している。 |
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| 任期満了に伴う宇検村長選挙は十四日、村内四投票所で一斉に投票が行われ、即日開票の結果、無所属で新人の國馬和範氏(54)が八百八十五票を獲得、初当選を果たした。現職の元山三郎氏(67)=無所属=は八百四十一票を獲得したが、四十四票の差で届かなかった。激戦を反映して投票率は96・56%に達し、高率だった一九九一年(96・32%)を0・24ポイント上回った。 今回の村長選挙は、二〇〇六年村六月定例議会で元山氏が出馬の意思を表明。國馬氏は九月中旬になって立候補を表明したが、あいさつ回りなど昨年四月ごろから出馬の準備を進めていた。 「合併をしない選択をした以上途中で投げ出すわけにはいかない。村勢発展に道筋を付け、総仕上げを」と五期目を目指す元山氏に対し、國馬氏は「村政の透明性を望む声が多い。住民本位の村づくりを目指す」などと刷新を訴えた。十六年ぶりとなる湯湾集落在住者同士の選挙戦は、両陣営とも草の根型の戦いで村を二分する激戦を展開。票固めにしのぎを削り、期日前投票総数は六百八十三票(37・50%)に上った。 投票は午前七時から午後六時まで役場一階会議室など村内四投票所で行われ、投票率(期日前は含まない)は新人同士の三つどもえ戦で高率だった一九九一年を上回った。 國馬氏は村議四人の支持を受け、民間的発想や若さなどを全面に押し出し、市町村合併については「将来に悔いのない道の選択」を公約に掲げて選挙戦を展開。早い動き出しで支持を集めた。 元山氏は、過去十六年(四期)の実績を基に、農林水産業の推進や人材育成、定住促進などを訴えて「元山村政」の総仕上げをアピール。合併をしない立場を貫き、「元気の出る村づくり」を強調したが一歩及ばなかった。 当日有権者数は千八百三人(男八百五十一人、女九百五十二人)。投票者総数千七百四十一人(男八百十五人、女九百二十六人)で、有効投票千七百二十六票、無効十五票。 |
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第11回南海日日旗争奪少年サッカー大会(南海日日新聞社主催、奄美市サッカー協会主管)は14日、古見方多目的広場でA、B級の決勝まで、名瀬運動公園でC級があり、A級はFC朝日が、B級は伊津部Aがそれぞれ優勝し、C級決勝は名瀬イレブンが制した。A級は名瀬イレブンを破った岡前とPK戦で奄美を下した朝日が決勝で対戦。前半、CKからクリアした球を押し込み朝日が先制した。さらにCKからこぼれ球をゴール。後半にもセットプレーで3点目を上げ、朝日が優勝した。B級決勝は一進一退の攻防の末に両者無得点で延長も終え、勝負はPK戦にもつれた。伊津部の主将・GK向井が好セーブで活躍し、接戦を制した。C級決勝は同点で迎えた後半、名瀬イレブンが勝ち越し、優勝した。 |
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琉球王国時代から明治期までの奄美の歴史を解明する上で重要な史料となる大和村の和(にぎ)家文書が十四日、同村に寄贈された。同和問題研究者で二〇〇二年に他界した和眞一郎さんの遺族が保管していたもので、琉球王国や薩摩藩から和家の一族が役人を命じられた辞令書や知行目録をはじめ、黒糖生産技術に関するものや債務奴隷「家人(ヤンチュ)」を無償解放した史料など、各時代の事象を明らかにする史料がまとまった形で残されており、研究者らも第一級の史料として注目している。大和村に寄贈されたのは、和家文書六十四点のうちの六十二点とノロ祭事に使用された鏡や小刀などの装飾品五点。残る文書二点は鹿児島市の県歴史資料館・黎明館に寄託されている。和家文書は和眞一郎さんの友人、松下志郎さんが一九六五年に目録をまとめ、昨年三月には大和村誌編さん委員会が「大和村の近世―大和村誌資料集3」で翻刻、出版されている。 和家は奄美大島の有力な役人の一族。古文書は眞一郎さんの死後、妻の千穂子さん(67)が鹿児島市吉野町の自宅で保管していたが、大和村誌編さんがきっかけとなって、同村に寄贈することになった。 同文書は琉球王国からの辞令書(朱印状)、薩摩藩統治初期の統治背景や方針を明らかにした知行目録、大島置目条々、島役人の生活の状況を示唆する土地売買証文関係史料など。このうち琉球王からの朱印状は三点あり、和家の先祖「知屋具盛」が笠利間切の役人に命じられた一五二九年の朱印状は、奄美で確認されている辞令書で最も古いものとされる。 また薩摩藩統治下では、他藩の船が漂着した時に黒砂糖生産技術の流出を恐れて技術を見習わせないよう対応した史料や福元盆地開墾、津名久海岸線の護岸工事に関するものなど。明治期では、家人解放に対する島役人の意識や解放方法を示す史料などがあり、和家が家人を土地付きで無償解放したことなども記されている。 大和村誌編さん委員の弓削政己さんは「琉球王国―薩摩藩侵入―薩摩藩統治―明治期の各時代の大きな変動の基本に対応した史料がまとまって残されている重要な史料群」とその価値を高く評価している。寄贈した和千穂子さんは「夫がいずれ自分の手で整理したいと考え大切に保管していたものだが、このまま家に置いておくよりもきちんとした所で保管してもらった方が良いと考え、親類に了解を得て寄贈することにした。奄美のために役立ててもらいたい」と話していた。 |
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| 龍郷町のダイビングスポットとして知られる倉崎海岸の海中で二〇〇五年、一体の地蔵が見つかった。近くのダイバーから「海地蔵」の愛称で親しまれて二年。小学生の善意がきっかけとなり、このほど海中供養が実現した。海中供養を計画した関係者は「台風の影響で遠くから流れ着いた縁起物。海の安全を祈願する観光名所にしたい」と期待している。 地蔵を見つけたのは同町芦徳のダイビングショップ「よいこダイビングリゾート」のスタッフ。大型の台風14号が奄美を通過した〇五年九月、海岸の約五十メートル沖で海底の岩場にたたずむ姿を発見した。地蔵は縦約十七センチ、横十五センチ。同店代表の成瀬昇吾さん(60)が調べたところ、国産の陶器製だということが分かった。 海中供養のきっかけになったのは兵庫県在住の小学五年生・村田匡君(11)がテレビ番組「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送系列)に送った手紙。村田君はダイビング中に地蔵と対面して以来、腹部に穴が開いて藻がかかった状態を気にかけていた。同番組が「お地蔵さんが幸せに暮らせるよう供養してあげたい」という依頼に応え、十三日に奄美ロケが実現した。 海中供養には村田君のほか番組レポーターの石田靖さん、兵庫県から駈け付けた三浦和浩住職が同行。海底に座布団を敷いて果物を供え、地蔵の汚れを落とした。住職のお経と木魚の音が海中に響く中、手を合わせて海の安全などを祈った。 ロケに協力した成瀬さんは「無事に供養が済んでホッとした。またどこかに流されてしまわないよう見守りたい」。今後はほこらを作り、大切に祭る計画を温めている。 |
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奄美市立市小中学校(碇山典子校長)にこのほど、神奈川県から二人が転入してきた。来年度の児童生徒休校が心配されていた中学校の存続がかない、学校職員、PTA、地域住民一同、喜びに沸いている。転入生は神奈川県からIターンで市集落に引っ越してきた、岩崎遙水(はるな)さん(中学二年)と惟(ゆい)君(小学六年)。九日にあった三学期の始業式から元気に登校している。 同校ではこれまで、小学校の四―六年生、中学校の一、二年生がおらず、三月には中学三年生の三人が卒業するため、来年度の休校が危ぐされていた。二人の転入で全校児童、生徒数は十二人に。来年度、惟君は中学一年生、遙水さんは中学三年生になり、二人の存在が休校の危機を救ってくれる。 始業式では、碇山校長の紹介の後、遙水さんが「自然のとてもきれいな所でうれしいです。早く学校に慣れるように頑張りたいです」とあいさつ。在校生も大喜びで、二人とすぐに打ち解け、休み時間にはドッジボールなどをして遊んだ。 碇山校長は「二人の転入で、学校、地域全体が活気づき、子供たちの表情も生き生きしている。二人には、小規模校の利点を生かして、自分らしさを存分に発揮してほしい」と話した。 |
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○…沖永良部島で十六日、伝統行事「墓正月」があった。各集落では多くの住民が墓参。知名町の田皆集落(今井宏毅区長)の共同墓地でも午前中、大勢の集落民が祖先とともに新年の到来を喜ぶ昔ながらの光景が見られた。○…同集落では午前中に肉や豆腐、お菓子などを墓に供えた。親類や知人の墓を訪問して線香を上げた後、一重一瓶を持ち寄った一族が酒席を囲んだ。初七日が済まない家族は墓に白いのぼりを立て、線香と花、酒を手向けると家路へと急いだ。午後からは昨年中、不幸があった家に親類や知人が集い、祖先とともに新年を祝った。 ○…奥間家の墓にも一族十三人が集った。ミサエさんは「子や孫、一族が一堂に集い一重一瓶を持ち寄り、亡くなられた祖先と時間を共有する貴重な行事。(子供たちにも)先祖を敬う心が芽生え、集落民同士や親せきのきずなも深まる」と話した。 ○…今井区長は「昨年からの一年間で集落民二十二人が亡くなり、物故者の多い一年だった。これから亡くなられた方の家々を回り、線香を手向けたい」と語った。 |
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○…奄美市名瀬の市街地などでオキナワジイが季節外れの花を咲かせている。例年より一カ月近く早い開花に、関係者は暖冬が影響しているのではとみている。○…オキナワジイは奄美大島以南の琉球列島に分布する常緑高木。例年二月から三月にかけて花期を迎えるが、今季は十二月下旬から名瀬市街地に面した山すそで黄白色の花が確認された。 〇…季節外れに開花する不時現象は近くの朝仁川や名瀬小湊でも見られ、奄美の植物に詳しい作田裕恒さんは「長年観察しているが、一月に花を見たのは初めて。暖冬が生育に影響したのではないか」と話している。 |
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第十八回太陽電池工作コンクール(独立行政法人新エネルギー・産業技術開発機構=略称・NEDO=主催)の最終審査がこのほど行われ、瀬戸内町立与路中学校(石原茂仁校長)三年の福井明日香さんの作品「ハブよけくん」が資源エネルギー庁長官賞、同二年の石原雅大君、東純平君の共同作品「大気汚染調査セット」がNEDO技術開発機構理事長賞を受賞した。さらに、二〇〇六年度第九回エネルギー利用技術作品コンテスト=略称・エネコン9=(日本産業技術教育学会主催)では、同一年の泰綾香さんの作品「野菜促成栽培器」が文部科学大臣奨励賞、石原君、東君の同作品が科学技術振興機構理事長賞に輝いた。小さな島の小さな発明家たちの活躍が、地域の話題を呼んでいる。太陽電池工作コンクールには、同中の全校生徒五人中四人が応募。牟田典丘教諭の指導の下、自分たちでアイデアを出し合い、夏休みの自由研究で、作品作りに取り組んだ。 奄美ならではと言えるハブよけくんは「ハブは光を嫌う」という性質を利用し、夜間でも発光する農作業用の長靴を作成。大気汚染調査セットは奄美の空気の美しさを何とか友達に伝えたいという思いから、汚染度を測定できる装置を考えた。 野菜促成栽培器は塩害で野菜が育たず、台風時には生鮮食品が手に入らない与路島の問題を何とかしたいと考案。エネコンの授賞式で受賞者代表のあいさつを任された泰さんは「『野菜がもっと手に入ったら―』という祖父の一言で作品づくりを決意した。受賞を祖父が一番喜んでくれた」などと話した。 |
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○…奄美大島でソテツのナリ(種子)の収穫、出荷がピークを迎えている。瀬戸内町阿木名の町森林組合ソテツ種子作業場には、島内各地から集められたナリがずらり。パートを含めた職員六人は皮むき、天日干しなどの作業に追われている。○…出荷に向けた処理作業は昨年十一月スタート。ナリは二十日間程度水に漬けられ、その後皮むき、選別、一週間程度の天日干しという工程を経て、二千五百個単位で袋詰めされる。今期の出荷量は、前年と同じ八百袋(二百万個)。 ○…組合出荷分は八年前から、全量が契約商社を経由して海外に送られている。職員は「南米や砂漠地帯の緑化材として重宝がられている。現地ではヘリコプターから地上にまかれているらしい」と話す。同組合の出荷作業は四月ごろまで続く。 |
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| 名瀬測候所は十七日までに奄美群島の二〇〇六年気象概況をまとめた。奄美市名瀬は七月の月平均気温は二九・八度で一八九七年の統計開始以降、最も高い月平均気温を記録。八月の月平均気温も名瀬、沖永良部とも歴代二位と高温だった。奄美市から五〇〇キロ以内に接近した台風は四個で、年平均(五・三個)を下回った。奄美群島の有感地震は三十九回で震度4以上の地震は十一月に一回観測した。 年間平均気温は名瀬二二・二度、沖永良部二三・〇度で名瀬、沖永良部とも平年より〇・七度高かった。名瀬は一八九七年の観測開始以来、一九九八年の二二・六度に次ぐ歴代二位、沖永良部も歴代三位の高温だった。 月平均気温は七月に名瀬で二九・八度、沖永良部で二九・三度を観測し、平年に比べて名瀬で一・四度、沖永良部で一・一度高く、名瀬では〇三年の二九・七度を上回る歴代一位の高温。沖永良部でも歴代三位だった。八月も高温は続き名瀬で平年より一度高い二九・一度、沖永良部で平年より一・一度高い二九・三度と両地域で歴代二位の高温を記録した。 年間降水量は名瀬が二四九〇・五ミリで平年の85%、沖永良部は一七八六・五ミリで平年の90%だった。特に七月は沖永良部で平年の9%の一五・五ミリ、名瀬で平年の14%の三二・五ミリしか降らず、その後も八月の沖永良部を除き、十月までは名瀬、沖永良部とも平年の20%から40%の雨量にとどまった。梅雨入りは平年より三日遅い五月十三日ごろ、梅雨明けは平年より八日早い六月二十日ごろだった。 年間日照時間は名瀬が一三八三・四時間と平年並み、沖永良部が一八三九・八時間で少なかった。月別でみると、名瀬、沖永良部とも三月に平年よりかなり多く、十二月には平年の62―69%でかなり少なかった。 台風は平年(二十六・七個)より少ない二十三個発生。名瀬の五〇〇キロ以内に接近した台風は七月に一個、八月に二個、九月に一個。三〇〇キロ以内に接近した台風は九月の13号だけだった。 地点別の地震は名瀬で二十二回、龍郷町で九回、喜界町で二十八回、天城町で四回、和泊町で三回。震度4以上は十一月に名瀬と喜界町で一回観測している。 |
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「港の安全見守ったともしび消える」―。“赤灯台”の愛称で親しまれてきた名瀬港本港地区・旧港の第一防波堤灯台の消灯式が十八日、名瀬海上保安部(久米和秀部長)ら関係機関・団体メンバーが参加して現場で行われ、四十三年を超える歴史に幕を閉じた。赤灯台は、NPO法人「ポートタウンあまみ」(有村忠洋理事長)からの要望を受け、今年度から工事が計画されている旧港埋め立て予定地内にモニュメントとして保存活用される予定。第一防波堤自体も旧港埋め立てに伴って撤去される。高さ九・七メートルの赤灯台は一九六三年三月十日に設置され、名瀬港で一番古い灯台で四十四年近い年数が経過している。 消灯式には行政、荷役会社、港湾工事会社関係者ら三十人以上が参加した。久米部長は「本日の午前九時まで点灯しており、別れを惜しんでいるようだった。赤灯台は撤去予定だったが、シンボルとして残すことになった。長い間ありがとう」とあいさつした。久米部長が消灯スイッチを押すと赤い明かりが消え、感謝を込めて名瀬海保職員十四人が敬礼した。 赤灯台や港の風景を写した記念写真をポートタウンあまみへ贈呈。有村理事長(43)は「港の安心安全の役割を果たしてきた灯台であり、思い出深い。その重要性を認識して地域の発展を祈念する象徴的なものとして利用を図り、市民に親しまれるようにしていきたい」と述べた。 赤灯台は、特殊な機械で基礎部分から切り離して名瀬港内の一角に移動させ、カバーをかけて保管する。場所は未定。旧港埋め立て予定地の避難緑地が完工した段階で、緑地内に移設を計画しており、「今後、関係機関と調整したい」(有村理事長)。旧港は現在、客船や遊漁船等が利用しているため、赤灯台の代わりに高さ二・三メートルの簡易標識を設置した。 赤灯台がある付近は昔は築港と呼ばれていた。点灯開始した当時は定期船の「あけぼの丸」「高千穂丸」「八坂丸」「興南丸」「黒潮丸」などが赤灯台の明かりを目印に出入港していた。本土への就職、高校や大学進学などでシマを去る人々の別れを見守り、シマに帰ってきたときの喜びを感じる象徴でもあった灯台だ。一つの時代の象徴的なともしびが消えた。 |
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