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10月27日(土)付 

「にっぽん丸」、瀬戸内町古仁屋港に初寄港
 商船三井客船(東京都)所有の豪華客船「にっぽん丸」(白川光晴船長・二一、九〇三トン)が二十六日、瀬戸内町のせとうち海の駅に初寄港し、房克臣町長をはじめ大勢の町民らが歓迎した。神戸港発着の日向―奄美クルーズの(二十四日―二十八日)の一環で、乗船客約三百人は加計呂麻島などの観光地巡りを楽しんだ。また、公募した一般見学者五十人が乗船し、洋上の「動くホテル」を体験した。
 古仁屋漁港岸壁であった歓迎セレモニーでは、「うもーれ、きゅら島」の法被を着けた房町長が「瀬戸内町の歴史と文化、自然を大いに楽しんでください」とあいさつ。白川船長が「これを縁にまた訪れたい」などと述べた。
 にっぽん丸の乗客定員は、最大で五百三十二人(百八十四室)。全長約百六十七メートル、全幅約二十四メートル。八階建て大型船で、船内にはシアターやプール、診療所、美容室、フィットネス、大浴場、ブティックなどがある。
 優美な船体を一目見ようと、岸壁はカメラを手にした見物人らでぎっしり。ホノホシ太鼓の演奏や特産品も並んで乗客を歓迎した。
 奄美大島は初めてという京都市の鹿取英雄さん(63)と大阪市の山本泰二さん(78)は「海と空の青が本当に美しい。マングローブでのカヌーがすごく楽しみだ。また来たい」と声を弾ませ、待機していたバスに乗り込んだ。

10月28日(日)付 

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ウクレレ奏者の浦川さんが沖永良部島へ移住

 関西を拠点に活動したウクレレ奏者の浦川洋昭さん(54)がこのほど、沖永良部島へ移住した。和泊町手々知名に古物店「なちかしゃショップ・アイボリームーン」を開店。「癒やしの音を多くの人に届けたい」と話し、演奏活動にも意欲を見せている。
 兵庫県小野市出身。古物商を営む傍ら、長年ロックバンドのギターリストとして活躍した。五年ほど前から突発性難聴を患い、ウクレレ奏者へ転向。沖縄県などで療養先を探していたところ、インターネットで沖永良部島の存在を知った。
 店名のアイボリームーンは「象牙(ぞうげ)色の月」という意味。曲のタイトルにも選んだ思い入れのある言葉だ。店内にはウクレレや骨とう品、ビデオソフトなど国内外から収集した自慢の品が並ぶ。
 人々との交流も広がり、福祉施設での演奏やウクレレ教室を計画している浦川さん。「永住の決め手は島の風土と人情。楽器と気候の相性も良く、最高の音が出せる」と笑顔を見せた。
 開店時間は午前十一時から午後六時まで(不定休)。問い合わせ先はTEL0997・92・1528。

村上春子さんの「追想録」発行祝賀会

 奄美の女性福祉活動に生涯をささげ二〇〇五年死去した村上春子さんの「追想録」発行祝賀会が二十七日、奄美市内のホテルであった。村上さんゆかりの女性らが遺徳をしのび出版を祝った。
 村上さんは、持ち前の行動力で戦争未亡人の救済や婦人会設立、復帰運動、母子寮や金久保育所、遺族会館建設に奔走した。村上さんを知る女性らが中心になって昨年、あかざき公園内に顕彰碑を建立、追想録刊行に取り組んできた。
 祝賀会にはかつての婦人会や市母子寡婦福祉会、行政関係者、親族ら約四十人が出席した。追想録刊行実行委員会の恒吉佳子委員長が「時間はかかったが、女性たちが手をつなぎ、行政の力も借り刊行できた」などと経過報告した。
 日本復帰前の村上さんを知る楠田豊春さんは「人間は生前より没後に真価が表れる。追想録の中に復帰運動写真があり、村上さんが紅一点写っている。婦人会活動だけでなく復帰運動にも参画した証だ」などと当時を振り返った。

10月29日(月)付 

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市町村合併後初の奄美市議選で26人の新議員決まる

 任期満了に伴う奄美市議会議員選挙は二十八日、投票が行われ、即日開票の結果、同日深夜までに新議員二十六人が決まった。市町村合併後、初めて行われた市議選で、新旧別の当選者の内訳は現職十五人、新人六人、元職五人。唯一の女性候補が当選して女性議員の議席を守ったほか、被選挙権を得たばかりの若い議員も誕生した。投票率は77・59%で、旧三市町村議選の前回合計と比べると1・52ポイント低下。選挙区の拡大などで選挙戦は盛り上がりに欠け、投票率は低調なものとなった。
 二十一日に告示され、定数二十六に対して二十八人が立候補する少数激戦となった。合併によって、旧市町村境を越える集票合戦が繰り広げられた。徳田毅衆議院議員の自民党入りの影響や、名瀬のまちづくり、合併後の笠利・住用の振興方策、議会の在り方など争点が交錯し、選挙情勢は最後まで混とんとした。
 各陣営は遊説の移動に割かれる時間が増え、票読みにも苦労する難しい選挙戦に。各地区の有権者にとっても見知らぬ候補者が増えたことで戸惑いがみられた。
 トップ当選を果たしたのは、千四百八十二票を獲得した元職の奥輝人氏(無所属)。
 唯一の女性候補、師玉敏代氏(無所属元)も当選を果たした。蘇嘉瑞人氏(無所属新)が初陣を飾り、旧名瀬市議選も含め、一九五六年以来五十一年ぶりに二十五歳の市議が誕生した。
 厚い組織基盤を持った候補が上位を占め、新人の健闘も目立った。現職の栄吉岡氏(無所属)と新人の川口幸義氏(無所属)の二人が当選ラインに届かなかった。
 党派別では公明が三議席、自民と共産が各二議席、社民が一議席を確保したほか、新人の平田勝三氏が当選を果たして民主が初めて議席を得た。
 開票は午後八時から始まり、同十一時十二分に確定した。六月定例会で市議会の自主解散議案が否決されたことで市民の間では市議会に対する批判の声が強まったが、同時に有権者の強い政治不信を招いた側面もあって選挙戦は最後まで盛り上がりに欠け、投票率は低調なものに終わった。
 投票総数は二万九千六百四十九人(男一万三千二百七十七人、女一万六千三百七十二人)、有効投票は二万九千三百八十五票、無効票は二百六十四票。
 当選ラインは六百九十一票。二〇〇四年の旧名瀬市議選の当選ラインは七百二十六票だった。当日有権者数は三万八千二百十三人(男一万七千四百九十九人、女二万七百十四人)。

徳之島でアリモドキゾウムシ根絶決起大会

 徳之島三町の農家らで組織する「徳之島アリモドキゾウムシ根絶推進協議会」(吉見哲一会長)によるアリモドキゾウムシ根絶総総決起大会が二十八日、天城町中央公民館であった。農家に加えて地元選出の県議や三町の首長・議員ら約百六十人が出席。出席者らは長年の悲願であるアリモドキゾウムシ根絶を実現し、「島の宝」であるサツマイモを取り戻そうと訴え、国や県に粘り強く交渉していくことを確認した。
 アリモドキゾウムシはサツマイモの害虫で、奄美では県が喜界島で一九九四年から根絶実証事業に着手している。二〇〇一年度から不妊虫放飼による本格的な根絶事業が始まっているが、事業着手から十三年経過しても根絶できず、他の島々は全くの手付かず状態にあることから、早期根絶を実現する目的で今年七月三十一日に同協議会が発足した。
 吉見会長は開会のあいさつで「沖縄県の久米島は十二月にも根絶宣言がなされると聞いているが、同時に事業着手した喜界島はあと十五年掛かるという。今、立ち上がらなければ末代まで徳之島の農業は立ち上がれない。徳之島へ根絶施設の整備をお願いしたい」と強く訴えた。
 禧久伸一郎県議会議員や大久保明伊仙町長、三町の議会議長らもあいさつに立ち、「何とか早期着工できるよう国、県に訴えたい」「費用対効果を出して要望を」「二〇〇九年度の奄振予算に組み込めるよう島民運動へ」「島の問題だけではない。県本土に広がれば死活問題になる」などとそれぞれ語った。
 また、会場からは作物としてのサツマイモの価値の高さを訴える意見が多数あったほか、「大学などへの支援要請を」「島民運動に発展させるために広報活動などが不可欠。十分なバックアップ体制を取るために基金の設立を」などの声も上がり、一致団結してアリモドキゾウムシ根絶を勝ち取っていくことを確認した。
 同協議会の今後の運営を三町の行政に委ねることを決めた後、「サツマイモに救われた歴史を忘れてはならない。アリモドキゾウムシの根絶を実現させて、徳之島の農業振興を図ろう」とした大会決議文を全会一致で採択した。

与論町でヨロン・おきなわ音楽交流祭

 第十一回ヨロン・おきなわ音楽交流祭(同実行委員会主催)が二十七日、与論町の砂美地来館であった。参加者は小学生から一般まで総勢四百七十七人。合唱に吹奏楽と多彩な演奏を披露し、海を越えた音楽の交流を果たした。
 音楽祭は琉球文化圏にある両地域の草の根交流を広げようと一九九七年から始まった。これまでの参加者は延べ百六十一団体・五千百九十二人。今年は与論町から百十五人、沖縄県から三百六十二人が参加した。
 与論高校吹奏楽部の演奏で開幕し、学校、団体ごとに発表した。宜野湾市の嘉数小学校は元気いっぱいに「Oh Happy Day」を合唱。与論中学校吹奏楽部は軽快な音色を会場に響かせた。
 各団体の個性を反映した舞台も見どころの一つ。与論小学校の和太鼓組織「誠双龍(まことそうりゅう)」は息の合ったばちさばきを見せ、うるま天龍太鼓(うるま市)は躍動感あふれるエイサーで観客を魅了した。
 最後は全員で「手のひらを太陽に」を合唱し、フィナーレを締めくくった。終了後は交流会があり、再会を誓い合う子供たちの姿も見られた。

10月30日(火)付 

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瀬戸内町の民家庭で1株のソテツに実の房6個

 一株に実の房が六個もついたソテツが瀬戸内町清水の民家にあり、話題となっている。長年ソテツを出荷してきた持ち主も「今までは二、三個(房)しかならなかった。六個なったのは初めて。収穫が楽しみ」と話している。
 持ち主は農業などを手掛けてきた里力さん(86)。里さんは復帰後十数年間、ソテツを出荷し、形のいいものだけ畑に移植した。話題のソテツもその一株。約三十年前、畑から庭に移した。現在、高さは三メートル余り。株の根元や途中からいくつも幹分かれしている。里さんによると、移植した当時からあまり大きさは変わらないという。
 庭師に造らせた、広さ六百平方メートルを超える庭にはソテツが約二十本。里さんは毎年梅雨のころ、苗用の実を取るため、庭内の雄花の花粉を雌花にまいて受粉させるが、どの株も雌花があるのは二、三房が最多だった。
 里さんは「ソテツは昔はみそを作ったりした命の恩人。感謝の気持ちで庭に植えた。肥料もあげていない。(六個実ったのは)どういうわけか分からない」と不思議がっている。

奄美市住用町でモダマが実付ける

 ○…モダマの自生地・奄美市住用町で巨大なさやが実っている。長さ一メートル、幅十センチにもなるさやを深い緑の中に見ることができる。モダマはつる性のマメ科植物で日本では屋久島以南に分布、さやの中には直径五―七センチの種子が十個前後入っている。
 ○…自生地は一九九二年に旧住用村が文化財に指定し、合併後も奄美市が引き続き指定している。しかし、装飾品としてさやを持ち去る者がおり、関係者は「個体数が減少している。奄美の貴重な財産なので、大事に守ってほしい」と訴える。

10月31日(水)付 

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奄美市笠利町で珍しいヨロンエビ釣れる

 奄美市笠利町で珍しいエビが捕れた。体長約二〇センチ、全身が鮮やかな赤色で目が小さく、触角が短い特徴などから希少種のヨロンエビと思われる。三十日から大浜海浜公園・奄美海洋展示館で展示している。
 このエビは二週間ほど前、同町の男性(29)が堤防で釣り中に偶然上げたもの。小型でボイルしたような体色にびっくり。しばらく、友人の経営するガソリンスタンドの水槽で飼育していた。
 エビ類に詳しい前川隆則さん(49)=奄美市名瀬=によると「多分ヨロンエビ。サンゴ礁の割れ目などで見られ、めったに上がらない。ショウグンエビとよく間違えらえる」という。
 ヨロンエビは甲長五センチ、甲は刺の無い顆粒(かりゅう)が特徴で生息密度は極めて低い。一九七一年に与論島で初めて発見され名付けられた。奄美海洋展示館では過去に笠利沖で捕れた二匹を飼育したことがある。

柔道家の古賀さん、奄美でレコーディング

 バルセロナ五輪金メダリストで、現在は古賀塾塾長として、後進の指導に当たっている古賀稔彦さんが二十九日、徳之島町出身の偉大な柔道家・徳三宝=故人=をたたえる新曲「柔道一代 徳三宝」のレコーディングのため、奄美大島に来島。同曲を作曲した久永美智子さん(63)=奄美市名瀬在住=の助言を受けながら、二日かけて歌を収録した。曲は年明けに(株)セントラル楽器(同市名瀬)から発売予定。
 歌い手は島の柔道家、プロの女性、男性歌手など数人の候補が挙がっていたが、同社の指宿正樹社長が柔道家としての古賀さんの生き方に引かれ、熱心に依頼。古賀さんは「柔道家として、柔道家の歌を歌えるチャンスがあれば、真正面から受け止めたい」と快く引き受けた。
 初日は同社のスタジオで二時間のリハーサル、最終日は三時間かけて収録を行い、作詞の恵沢彦二さん(85)=奄美市名瀬在住=、久永さん、指宿社長も様子を見守った。同曲で歌手デビューとなる古賀さんは「練習してない人が試合に出るような気持ち」とやや緊張した面持ちでスタジオに入ると、何度もリズムや音階を確認しながら、レコーディングに臨んだ。
 恵沢さんは「徳三宝を伝える本は数十冊あるが、歌はない。歌にすることで、より多くの人に徳三宝を知ってほしい」と初めて作詞を手掛けた。「書いているうちに、自分が元気をもらった。徳三宝の魂が乗り移ったよう」と満足感を表していた。
 久永さんは、「加計呂麻慕情」など多くの新民謡を作曲し、島の音楽界を代表する作曲家。「詞を読んで力強い雰囲気を感じた。誰もが歌える応援歌として広がってほしい」と期待した。

11月1日(木)付 

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奄美10月の人口は12万3050人
 県企画部は三十日、推計人口調査結果(十月一日現在)を発表した。県全体の推計人口は百七十三万一千六百三十九人(男八十万八千二百八十二人、女九十二万三千三百五十七人)で、前年同月と比べ一万一千三百八十二人減少した。奄美は十二万三千五十人(男五万八千四百七十二人、六万四千五百七十八人)で、前年同月より千七百二十七人減少した。龍郷町のみ増えている。
 県全体の世帯数は七十三万二千八百二十八世帯で、前年同月と比べ二千七百四十二世帯増加した。九月中の人口動態は、自然動態が百九十五人、社会動態は二百七十二人の減。
 奄美の世帯数は五万二千八百一世帯で、前年同月より九十七世帯の減。人口動態は、自然動態が三十五人の減、社会動態は五十七人の増となった。
奄美市の緑が丘小学校を県のへき地・小規模校教育優秀校表彰
 地域が育む「かごしまの教育」県民週間(一日―七日)のオープニング式典が三十一日、県庁であり、今年度のへき地・小規模校教育優秀校として奄美市の緑が丘小学校(室之園晃徳校長、児童数三十人)が表彰された。同週間は県教委の主催で二〇〇三年度から実施。大島地区の小、中学校でも期間中、学習発表会や授業参観、給食試食会、地域との交流活動などさまざまな催しが予定されている。
 緑が丘小は、文部科学省の「学校教材整備の仕組みの構築」事業協力校として、パソコンなどと組み合わせた学習情報ボードなどを導入し複式授業の間接指導時に児童たちの興味、関心を高める工夫を行っているほか、地域や鹿児島市内の学校との交流活動などにも積極的に取り組んでいる点などが評価された。
 へき地・小規模の表彰制度は、地理的条件や小規模校であることによって起こるさまざまな課題を克服し、へき地・小規模校ならではの特性を生かした教育を展開している学校を表彰するもので〇一年から行われている。今年度は小学校三校、中学校二校が表彰された。
喜界町各地で集落祭
 旧暦九月十九日の二十九日、喜界町各地でシマ遊びがあった。湾集落(岩田進区長、六百三十五世帯)でも伝統の集落祭(豊年祭)が行われ、老若男女が集い八月踊りや相撲を楽しんだ。
 祭りは公民館前広場での八月踊りで始まった。同集落は「地域の伝統芸能を守っていこう」と八月踊り保存会を結成し、伝承活動に取り組んでいる。保存会のメンバーを中心に踊りの輪が広がった。
 相撲では小・中・高校生らが土俵に上がり好取組みを繰り広げた。今年はしばらく行われなかった親子相撲が復活し、中学三年生とその父親が対戦し会場を沸かせた。また、相撲甚句や赤ちゃんの土俵入りもあった。
 相撲の後、再び八月踊り。大人に交じって子供たちも加わり、最後は「六調」でにぎやかに締めた。岩田区長は「集落祭はウヤンコー(高祖祭)とともに先祖代々行われてきた大切な行事。住民が力を合わせ守っていきたい」と話した。
県の発明工夫展で名瀬の河野龍造さん考案の「仮設足場における布板ずれ防止器具」が県知事賞
 第五十五回鹿児島県発明くふう展(発明協会鹿児島県支部主催)の入賞作品が十月三十一日発表された。奄美関係では、奄美市名瀬で建設会社を経営する河野龍造さんが考案した「仮設足場における布板ずれ防止器具」が一般の部の県知事賞に選ばれたほか、瀬戸内町立与路小学校の東千尋さん(四年)の絵画「海中そうじ機」が発明協会県支部長賞を受賞した。
 今回は絵画・考案作品の計五百四点の応募があり、県知事賞四点、県教育委員会賞二点、発明協会県支部長賞四点、鹿児島商工会議所会頭賞一点などが選出された。入賞者の表彰式は三日、鹿児島市のかごしま県民交流センターであり、四日まで同センターに展示される。
 県知事賞に選ばれた河野さんの作品は、高所作業時に足場の安全性を確保する目的で考案したもので、取り外し可能な金属製の踏み板で板のすき間や段差を解消し、経済性も優れている点などが評価された。
 このほか、優秀賞には与路中学校三年の東純平君と石原雄大君の「バイバイばい菌くん」(発明考案)、奄美市名瀬の造園業、瀧源廣さんの「樹木の転倒防止装置」(一般の部)の二点。優良賞には与路中学校一年の東哲平君と石原尚大君が考案した「ALL Weather Boots」が選ばれた。
奄美群島全域でウニの禁漁期間に
 奄美群島全域を対象にしたシラヒゲウニの採捕規制が一日スタートした。十一月一日から六月三十日まで群島全域で禁漁となり、加えて一年を通じて五・五センチ以下のウニの採捕が禁止となった。漁業法に基づく奄美大島海区漁業調整委員会指示で、有効期間は二〇一〇年三月三十一日まで。
 採捕規制は資源管理の一環。今年五月の海区漁業調整委員会で、これまで各市町村ごとに設定していた禁漁期間の統一などを決定していた。違反者は一年以下の懲役か五十万円以下の罰金に処せられる場合がある。

11月2日(金)付 

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山下、徳田両氏と青嶺短歌会に南海文化賞を贈呈

 第三十一回南海文化賞(南海日日新聞社主催)の贈呈式が同社創刊記念日に当たる一日、奄美市内のホテルであった。受賞者は同市文化財保護審議会会長の山下文武氏(81)=同市、教育・文化部門=と、医療法人徳洲会理事長の徳田虎雄氏(69)=鹿児島市、医療部門=と、青嶺短歌会(奥たずえ代表、会員五十人)=教育・文化部門=の二氏一団体。式には歴代受賞者や各界代表ら約百四十人が出席し、多大な功績を残した受賞者らの栄誉をたたえた。
 山下氏は名瀬市誌編さんに取り組んで以来、古文書研究を通じて奄美の歴史解明に尽力した。古文書解読を研究者の域に留め置かず、広く一般市民へ浸透させたことも特筆すべき点。住用村教育長、千葉大非常勤講師などを歴任した。
 徳田氏は「生命だけは平等だ」の理念の下、全国に「年中無休・二十四時間オープン」の徳洲会病院を開設。「筋萎縮性側索硬化症」を発症した今も、約三百の医療福祉施設を擁するグループのトップとして陣頭指揮を執る。一九九〇年から衆議院議員を四期務めた。
 奄美で最も古い歴史を持つ青嶺短歌会の前身は、四〇年に発足した「奄美短歌人会」。戦時中は一時途絶えたが、四六年に現在の名称で再出発した。作家島尾敏雄氏らの指導で活発な活動を展開。長きにわたる地道な文芸活動で活字文化の継承、発展に貢献している。
 山下氏は「ひとえに多くの知人と援助と支えがあってこそ。今後も一身を投げ打って励み、研究の成果が出るよう頑張りたい」とあいさつ。徳田氏(代読・弟の貴則氏)は「これまでの奄美群島での医療活動が認められ大変光栄だが、まだ十分とは言えない。今後も充実した医療福祉が提供できるよう努力したい」と喜びを語り、奥代表は「芳じゅんな名瀬の土壌こそが先輩たちのまいた種を健康にはぐくみ、活動を継続へと導いてくれた。受賞を機に研さんを積んで参りたい」と気持ちを新たにした。

サシバ飛来の季節に

 ○…冬の使者・サシバが飛来する季節を迎えた。野鳥愛好家によると、今年は十月に入っても暖かい日が多かったせいか例年より見掛ける数が少ない。
 ○…サシバはワシタカ科の仲間で全長約五〇センチ、羽を広げた長さは一メートル余り。日本本土では夏鳥として渡来し、繁殖。琉球列島以南、東南アジアなどでは秋に南下し、越冬する冬鳥だ。
 ○…主な食べ物はネズミ、トカゲ、カエル、ヘビ、バッタ類。奄美大島では龍郷町秋名、奄美市名瀬小湊、同笠利町内のサトウキビ畑周辺などの木の枝や電柱に止まって羽を休める姿が見られる。(写真は奄美野鳥の会提供)

国立療養所奄美和光園で合同慰霊祭

 奄美市名瀬の国立療養所奄美和光園(前川嘉洋園長、入園者五十七人)で一日、合同慰霊祭があった。入所者や遺族、園の職員、市や県の関係者など約六十人が列席し、この一年間で亡くなった四人を含む三百五十二柱の御霊の冥福を祈った。
 前川園長が職員一同を代表し「ハンセン病の治療も十分施せない時代に皆さんは和光園に入所され、筆舌に尽くせない苦労をされた。現在ではハンセン病に対する啓発も進み、市民との交流も盛んになってきた。開かれた和光園が日本の国立ハンセン療養所のモデルとなる施設へと進展することを誓う」などと慰霊の言葉を述べた。
 続いて遺族代表があいさつし、「地域によってはまだ根強いハンセン病に対する偏見があると聞く。人の心のバリアが完全になくなることが故人や遺族の願い。ハンセン病に限らず、だれもが何の隔たりもなく過ごしていける社会づくりが参列者の務め」などと差別のない社会の実現を訴えた。
 その後、遺族や来賓、職員が祭壇に献花を行って三百五十二柱の御霊の冥福を祈った。

幻の郷土誌「曙の小野津」の写しを喜界町に寄贈

 これまで文献としては知られているがその存在は確認されてなく、郷土研究家から“幻の郷土誌”と呼ばれていた三井喜禎氏著の集落誌「曙の小野津」が大阪府在住の喜界島出身者によって保存されていることが分かり、十月三十一日、同島在住の親せきを通してコピーが同町図書館に寄贈された。同集落誌はガリ刷りで、内容から一九三二年八月以降に出版されたと見られる。同図書館の得本拓司書は「貴重な内容も多くある。郷土資料として活用させたい」と話している。
 得本司書や関係者によると、三井さんは、一九二六年から三三年まで小野津小学校に在職。同氏の著書「喜界島古今物語」には「曙の―」は戦前に出版したという記録がある。「喜界町誌」でも出版されたことに触れ、編さん中に委員らが現物を探し回ったが見つからなかった。
 しかし、昨年四月、喜界町郷土研究会会員で小野津の吉塚廣次さん(85)が、親せきで大阪に住む著者の二男の嫁の三井徳子さん宅に保管されていることを知った。徳子さんは今年十月下旬、孫を連れて島を訪れ、吉塚さんに原本を渡した。吉塚さんは「子や孫にとって大事な宝だ」として、喜界町図書館でコピー、製本して原本は徳子さんに返した。
 得本さんによると、全二百三十七ページで表紙は布張りのカラー。三二年上半期ごろまでの統計が載っていることから三二年八月以降に出版されたとみている。内容は小野津集落だけでなく、当時の喜界島の社会、世相全般についても記載。出郷者の送金状況や北米・満州への出郷者状況、小野津集落の総人口、クレオパトラアイランドと呼ばれたいきさつ、小野津集落に残る五つ甕(かめ)の伝説などにも触れているという。
 著者の三井さんは吉塚さんが小学校三年のときの担任。復帰運動では密航して上京したという。「『曙の―』は『喜界町誌』にも載っていない内容もある。資料を見ると昔を思い出す」と話した。
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