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12月22日(土)付 

沖永良部地下ダムに18億円内示
 二十日内示のあった二〇〇八年度政府予算財務省原案に盛り込まれた奄美群島振興開発事業(国土交通省一括計上分)の一部事業について内示額が二十一日までに分かった。〇八年度着工となる沖永良部国営かんがい排水事業(地下ダム)には十八億円が内示された。環境省など他省庁の要求していた奄美関連事業の内示状況も二十一日までに分かった。
 沖永良部の地下ダムは〇七年度実施設計、〇八年度本格着工と進む。〇八年度内示額は夏の概算要求十四億円を四億円上回った。一九九七年度着工のダムの徳之島用水事業に対する内示額は一期、二期合わせて四十三億円で、概算要求を二億円上回った。
 環境省関係はいずれも全国枠での内示。奄美・琉球諸島の世界自然遺産登録に向けた取り組みに対しては、「世界自然遺産候補地等検討調査費」として二千四百万円(前年度当初比92・3%)。マングースの駆除事業に充てる「特定外来生物防除等推進事業」は三億二千八百万円(同94・0%)、希少野生動植物の保護増殖事業に充てる「特定野生生物保護対策費」は二億五千三百万円(同99・2%)の内示だった。
 デジタルテレビ中継局整備については、電波利用料を財源にした新設の「送受信環境整備事業」に五十二億円が内示された。総務省によると、このうち十六億円が全国枠で中継局整備支援費として内示された。
奄美大島商工会議所会頭に浜崎幸生氏
 奄美大島商工会議所は五日と二十一日に奄美市の同商工会議所会議室で臨時議員総会を開き、新会頭に税理士、浜崎幸生氏(63)を選出したほか、副会頭に楽器店経営、指宿正樹氏(56)と旅行業、川田光弘氏(54)を決めた。
 二十一日にあった同総会のあいさつで浜崎氏は「観光と絡めた公共事業の促進で人口減少に歯止めをかけ、経済活性化を図りたい」と決意を述べた。会頭に選出された浜崎氏は一九四四年(昭和十九年)生まれ。現在浜崎税理士事務所所長。
 総会では、岡崎貞信事務局長を再任、伊集院聰志前会長は特別顧問に就任した。

12月23日(日)付 

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花徳小学校の児童らが能の舞を披露

 文化庁が財団法人伝統文化活性化国民協会に委嘱して実施している「伝統文化子ども能楽教室」の発表会が二十二日、徳之島町立花徳小学校(篠崎明人校長、児童七十三人)であった。観世流シテ方能楽師の橋岡佐喜男さん(NPO法人せんす代表)の指導を受けた児童たちが保護者らを前に立派な舞を披露し、会場から拍手を浴びた。
 事業は日本の伝統芸能である能の歴史を知り、実際にうたや舞を体験する講座。花徳小の児童たちは十七日から五日間の指導を受け、発表会に臨んだ。
 開会式で橋岡さんは「能は六百五十年前に確立されたもので、歌舞伎など伝統芸能のルーツ的な存在。うたや舞だけでなく、着付けや着物のたたみ方なども学んでもらった。子どもたちだからこそ短い期間で覚えることができた」などとあいさつした。
 四―六年生が二組に分かれて発表。立派なはかま姿で整然と登場し、扇子を片手に立派な舞を披露した。
 発表後、児童たちは「覚えられるか心配だったけど、間違いなくできて良かった」などと一人ずつ感想を述べた。
 橋岡さんは講評で「せっかく一芸を覚えてもらったので、今後も正月などに家族などの前で舞ってほしい。やり遂げたことを自信に持って」などと語り、子どもたちを励ました。

与論町の中心商店街でストリートサッカー

 与論町茶花の中心商店街・銀座通りでこのほど、ストリートサッカーフェスティバルが行われた。四月に結成した同通り会青年部が手掛けた初のイベント。観光低迷や消費行動の変化を背景に客足が遠のく中、部長を務める市来大作さん(41)は「前向きな気持ちで活性化対策を考え、かつてのにぎわいを取り戻したい」と商店街の再生に夢を描く。
 銀座通りは中央通りと並ぶ茶花市街地のメーンストリート。二百メートルの町道に土産屋や飲食店など約五十店舗が軒を連ねる。観光最盛期は多くの旅行客が行き来したが、最近は空き店舗も目立ち、買い物客は減りつつある。
 市来さんは同地区に長年店を構える鮮魚店の二代目。子供のころは商店街の活況が自慢だったが、Uターン後は集客に苦戦する現状を目の当たりにした。新規参入や経営者の世代交代が進む中、十二人で青年部を立ち上げ、町民参加型のイベントを考えた。
 企画段階で注目したのが競技人口の多いサッカーだ。幅広い世代の参加を促そうと町サッカー連盟に協力を依頼した。当日は千人近くが集まり、予想以上の大盛況。歩行者天国となった通りで二十二チームが熱戦を展開し、出店も繁盛した。
 連盟の中山隆さん(33)は「当初は道路上での競技に戸惑いを感じたが、関係者の熱意に押された。サッカーの底辺拡大といった相乗効果も期待できる」。「集客を売り上げに結びつける店側の努力も必要。意識改革につながるのではないか」(五十代男性店主)と周囲の評判も上々だ。
 来年は町外からの参加を募って規模を広げるほか、新しいイベントも打ち出していく。市来さんは「まずは地元の人に商店街の魅力を知ってもらうきっかけづくりが重要。歩いて店を巡る買い物の楽しみを伝えたい」と抱負を語った。

奄美市で「マイバッグ手づくりキャンペーン」

 奄美ゴミ問題・温暖化防止協議会主催の「マイバッグ手づくりキャンペーン」が二十二日、奄美市名瀬の商店街であった。買い物客らにミシンを使って作り方を実技指導したほか、販売なども行った。
 同キャンペーンは奄美市NPO等支援事業の一環。地球温暖化防止に向け、レジ袋削減のため買い物袋の持参率を上げることなどが目的。同協議会は、市内二十五企業から協賛を受けたマイバッグを広報するチラシも配布しながら活動を行った。
 中央通りアーケードのブースでは、事前に講習を受けた指導員らが、買い物客らに実技指導。参加した主婦の一人は「ミシンを使うのも久しぶりだったが、かわいいものができた。これから買い物に持参したい」などと話した。

12月24日(月)付 

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与論小学校で炭焼き体験

 与論町の与論小学校(白尾克彦校長)で二十日、「炭は地球を救う」と題した体験学習があった。全校児童がモクマオウなどを使った炭焼きに挑戦し、環境保全にも理解を深めた。
 講師を務めたのは熊本県で工房を構える溝口秀士さん(50)。溝口さんは炭の水質浄化作用に着目し、流木で作った炭を海に沈めて藻場(もば)を作る活動にも力を入れている。
 炭焼きはレンガで即席の窯を作る作業からスタート。近くの海岸で集めた約十キロのモクマオウを切り分け、重ねて窯に入れた。点火から約四時間がたつと、炭の出来上がり。児童は手触りを確かめたり、文字を書いたりと興味津々の様子で作業に取り組んでいた。
 溝口さんは炭の役割について「暖房に料理、消臭剤と幅広く使える。空気や水をきれいにしてくれるし、環境にも優しい」と説明。三年生の二宮るいさんは「重たかった木が軽くなって驚いた。ネックレスを作ってみたい」と話していた。

12月25日(火)付 

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全国伝統的工芸品公募展で知名町の長谷川千代子さんが新人賞

 (財)伝統的工芸品産業振興協会主催の二〇〇七年度全国伝統的工芸品公募展の審査結果がこのほど発表され、奄美からは芭蕉布を出展した長谷川千代子さん(68)=知名町=が新人賞、大島紬を出展した積良一さん(59)=奄美市笠利町=が生活賞に入選した。二百三十三種の工芸品の制作者三百五十九人から四百三点の応募があり、入賞は二十一点。入選作品は三十日まで東京・池袋の全国伝統的工芸品センターで展示されている。
 長谷川さんは沖永良部唯一の芭蕉布作家。紬養成所指導員として長年町役場で勤務し、一九八〇に伝統工芸士の認定を受けた。九年前から芭蕉布作りを始め、沖縄県在住の人間国宝・平良敏子さんに師事。九州地区西部工芸展入選、県ふるさと特産品コンクール県知事賞などの受賞歴を誇る。
 同公募展は五回目の出展で初の入賞を射止めた。受賞作の「着尺 蝉(せみ)しぐれ」は完成までに一年を要した反物。上質の糸を厳選し、藍(あい)染めの縦糸を挿し色に取り入れた。着用者の年齢や性別を問わないシンプルなデザインを追究し、「創作の原点に戻り、芭蕉布ならではの素朴な風合いを表現した」。
 現在は知名町下城の工房で創作活動の傍ら、後継者育成にも力を注いでいる。「受賞は身に余る光栄。技術向上と合わせて低コスト化にも努め、愛用者を増やしたい」と抱負を語った。
 積さんは二十五年ほど前から独創的な草木泥染め紬の制作に取り組んでいる伝統工芸士。同公募展にはこれまで四回出展し、日本商工会議所会頭賞などを受賞している。
 今回出展した作品名は「薬草泥染 若青」。自ら栽培したチョウメイソウ(ボタンボウフウ)を材料に泥染めし、淡い若草色に染まった糸で織り上げた反物。
 長い試行錯誤の期間を経て、今では三十以上の奄美の植物を使った泥染めでさまざまな色を持つ魅力的な製品作りに成功している積さん。「草木染めは色落ちして当たり前」という従来の常識を打ち破り、時を経ても色落ちしない草木染めの技法も確立した。
 「色を生かすから、柄はどうしてもシンプルになる。きものが目立つのでなく、人を引き立てる反物を作りたい」との考えのもと、唯一無二の一点ものの商品作りを実践している。

和泊町出身の高橋孝代さんに伊波普猷賞

 第三十五回伊波普猷賞(沖縄タイムス社主催)の選考結果が二十三日発表され、和泊町出身の高橋孝代さん=オランダ在住=の「境界性の人類学―重層する沖永良部島民のアイデンティティ―」など三作が選ばれた。奄美関係の受賞は二〇〇四年の山下欣一さん(「南島民間神話の研究」)に続いて二人目。贈呈式は〇八年二月十二日、ザ・ナハテラス(那覇市)である。
 同賞は沖縄学の父といわれた伊波普猷の業績を顕彰し、故人に続く郷土の文化振興、学術発展に寄与すると認められる研究などへ贈るもの。これまでに四十二個人、二団体が受賞した。
 高橋さんは一九六七年和泊町和生まれ。沖永良部高校を経て早稲田大学を卒業し、米国の大学院で文化人類学を専攻した。現在はライデン大学日本学研究所客員研究員。主な論文に「沖永良部島の戦後史から現在をみる―思想と文化の変遷―」などがある。
 境界性の人類学は歴史・芸能史などから沖永良部の島民意識を考察した一冊。高橋さんは関係者の協力に謝意を述べ、「個人的なアイデンティティーへの疑問から出発した研究。琉球弧に住む人の思いをのせ、周縁に置かれた人々の重層性という普遍的な課題も扱った。今後は『周縁からの視点』にジェンダーや信仰などの視点を加え、国際的な課題に挑戦していきたい」と抱負を語った。
 高橋さん以外の受賞者と著作は次の通り。
 ▽藤井貞和氏(立正大学教授)「甦(よみがえ)る詩学『古日本文学発生論』続・南島集成」▽我部政明氏(琉球大学法文学部教授)「戦後日米関係と安全保障」

「奄美群島の日本復帰運動を伝承する会」が発足

 「奄美群島の日本復帰運動を伝承する会」設立総会が二十四日、奄美市名瀬公民館で開かれ、会則や当面する伝承活動方針、役員体制を承認し、復帰運動を語り継ぐ拠点組織が発足した。「復帰五十五周年に望む」をテーマにした市民座談会があり、話題提供者四氏が提言した後、出席者と意見交換した。来年は復帰五十五周年を迎えることから「語り部」人材育成事業を行い、復帰した十二月に集中してさまざまな催しを開催するように関係当局に要望していくことを決めた。継承を意識して役員は、復帰した一九五三年生まれなどの役員を選出した。
 奄美市名瀬、龍郷町から四十人が出席。呼び掛け人代表であいさつした楠田豊春さんは「歳月が流れる中で復帰運動の語り部が少なくなり、少しずつ風化している。来年は節目の年。若い人々がリーダーとなってもう一度(歴史的な)運動を掘り下げ、機運を高めてほしい」と呼び掛けた。
 事業は@各学校・民間団体等への出前講座等の「復帰運動語り部」(講師)派遣A奄美―沖縄双方の復帰イベント交流ツアーの実現B新聞、テレビ、ラジオ等での特別番組、リレー随筆等の企画提供C特別講座(公民館講座など)の開講陳情D奄美群島の各市町村への「復帰・平和行政」の推進要請活動―など九項目を決めた。
 当面の伝承活動方針では、「語り部」講座の修了生に修了証書と語り部登録証を授与することを決め、復帰五十五周年行事では地元ケーブルテレビやラジオ等での特別番組放送要請、市民座談会の開催、十二月に集中して小中高校等での復帰講話、弁論大会、作文募集を関係当局に要望することなどを決めた。
 市民座談会の中で出席者から「企業や市町村カレンダーに『復帰記念の日』掲載を要請していこう」「日本復帰記念平和資料館建設を目指し、分散している資料や物品をまとめよう」「復帰前の占領下での復帰運動、住民の暮らし、文芸活動の伝承も大事」「十二月二十五日の朝にサイレンを流し、朝食抜き(断食体験)運動を展開してはどうか」などの提言が出された。
 役員は次の通り。(敬称略)
 ▽会長 西平功▽副会長 山田正修、美佐恒七、間弘志、安原てつ子、岡登美枝、當田嶺男▽事務局長 花井恒三▽監事 久保譲二、楠田哲久▽顧問 楠田豊春、治井文茂、吉田慶喜、薗博明、大津幸夫、奥山恒満

12月26日(水)付 

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奄美市名瀬で「日本復帰の集い」

 奄美の五十四回日本復帰記念日の十二月二十五日、奄美市と泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会などは奄美市の名瀬小学校で「記念の集い」を開き、復帰運動の継承とともに、群島の飛躍に誓いを新たにした。集いは悪天候のため、おがみ山での開催を取りやめ、前年に続いて名瀬小学校体育館での開催となった。
 進行は名瀬中学校二年の肥後こすもさんと加島香さんが務め、奄美市名瀬の児童生徒、復帰運動を経験した人など今年も多くの市民が訪れた。
 参加者は泉芳朗氏がつくった「断食悲願」の詩(手作りのプレート)に向かって献花。全員で「日本復帰の歌」を歌った後、平田隆義市長が「この集いが次代を担う若い人々に(復帰運動を)語り、受け継がれる場になっている。先人たちの情熱と行動に思いをはせ、夢と希望に満ちあふれる奄美市づくりに頑張っていきましょう」と呼び掛けた。
 若き日に復帰運動に携わった偲ぶ会の楠田豊春会長(85)は、米軍政下での人々の暮らしがいかに厳しかったを数字を示して説明し、復帰五十周年(二〇〇三年)の時、自身が寄せたメッセージを引用。「二十一世紀の奄美をつくるのは皆さんのような青少年。新しい時代を創造する希望と決意を新たにしてほしい」と述べ、児童生徒を激励した。
 名瀬小学校六年生は「断食悲願」を朗読。児童生徒を代表して津畑栄実子さん(金久中二年)は「私たちは先人たちが復帰運動をしたお陰で日本の奄美大島に住んでいる。奄美大島を守り、発展させていきたいと思う」と感想を述べた。
 奄美市の前身・名瀬市は一九九六年、復帰記念日を制定した。その後、市側が中心となって記念行事を実施している。記念日はその後、奄美全市町村に広がった。

不思議な形のポンカン取れる

 ◇…奄美の師走の味、ポンカン。大和村津名久のAさん(67)は二十四日、自分の畑で、へんぺいで半ズボンのような不思議な形のポンカンを収穫した。
 ◇…三回の摘果では気付かなかった。三週間前、色付き始めて目に止まった。「小さいころかじられたからなのか、温暖化のせいなのか」と考えつつ、心配もしながら適期を見計らっていた。
 ◇…今、経営する店で展示している。客はみな不思議がってくれるが、「せっかくだから飾っているけど、こんなのが次々成り始めたら大変だよ」とAさん。

12月27日(木)付 

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喜界島の最高地点は花良治集落背後の「七島鼻」の二百十一・九メートル
 喜界島の最高地点は花良治集落背後の「七島鼻」の二百十一・九メートルであることが町役場産業振興課の調査で分かった。最高地点についてはこれまで諸説あったが、今回の調査で判明し、同地点に最高地点を示すプレートを設置した。
 同島の最高地点は、資料によって二百十四メートル、二百十六メートル、二百二十四メートルなどとあり、はっきりした数字は分からなかった。一般的には百之台公園近く(二百三メートル)が最高地点と思われている。ガイドブックなどにも正確な数字は表記されていない。
 町産業振興課はこのほど、奄美市の測量会社に依頼しGPS(全地球測位システム)を使って調査したところ、七島鼻(北緯二八度一七分五八秒、東経一二九度五八分二四秒)が二百十一・九メートルで最も高いことが判明した。
 七島鼻は百之台の一角、花良治集落の背後に位置し、戦時中は米軍の攻撃に備え日本軍の施設があり、最近ではパラグライダーのスタート台のある場所として知られている。
 調査結果を受け町産業振興課は、同地点に「喜界島最高地点」のプレートを設置した。担当者は「これまで喜界島の最高地点はあいまいだった。町民から七島鼻が最も高いという声もあり、それが裏付けられた。島は隆起しており、最高地点の数字が今後、どう変わるのか興味がある」と話す。

奄美市の住用小学校児童ら、長野県小川小学校児童らと交流

 奄美市住用町の小学六年生二十人は二十二日から三泊四日の日程で長野県小川村を訪れた。児童たちは初めて見る雪に感動し、スキーやスケートなど体験。七月に奄美を訪れた小川小学校(小柳義男校長)の六年生二十七人との再会も果たし、小学校生活最後の冬休みに最高の思い出をつくっていた。
 両地域の交流は今年で十年目を迎えた。毎年、夏と冬に、小学六年の児童たちがお互いの地域を訪れ、体験活動などを通して親ぼくを深めている。
 児童たちは初日、約十時間かけ、飛行機や新幹線を乗り継ぎ長野県に到着した。ほとんどの児童が雪を見るのも新幹線に乗るのも初めて。宿舎に着くと早速外に出て雪遊びに興じた。二、三日目は小川小の児童たちとスキーやスケートに出掛け、初めてのウインタースポーツを満喫。滑り方は小川小の児童たちに手ほどきを受けた。また、二日目の夜は小川小の児童宅にホームステイし、小川村での生活を体験。児童たちは真っ白な雪一面の中で初めてのホワイトクリスマスも過ごすことができ、大喜びだった。
 住用小の用稲尽志君は「小川小のみんなとは久しぶりに会ったはずなのに、いつも会っているような感じがした。住用とは千六百キロも離れているのでなかなか会えないけどまた再会できたらうれしい」と感想を話した。

12月28日(金)付 

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夫の遺志継ぎ、奄美二世の彫刻家の嘉野さんの妻が龍郷町を訪れ墓参り

 長年、フランスのパリを拠点に活動してきた奄美二世の彫刻家の嘉野稔さんは今年二月十二日にがんのため他界した。享年七十五歳。生前、両親や祖先ゆかりの地である奄美大島を訪れたいと話していたというが、願いはかなわなかった。夫の思いを引き継ぎ、妻のミサワさん(74)=神奈川県出身=が二十三日から二泊三日の日程で来島、龍郷町中勝にある祖先の墓参りを果たした。
 ミサワさんによると、嘉野稔さんの親は龍郷町中勝出身で、祖父や父親らは大島姓。嘉野さんは一九三〇年に東京で生まれ、東京芸術大の第一回卒業生で、五七年にフランス政府が旅費を給付する留学生に選ばれて渡仏。ロマネスク彫刻に魅せられて数年は車で各地を走り回って修行する時代があった。その後、創作活動を続け、パリの各種展覧会で作品を発表した。
 日本大使館で個展を開いたことがあり、ユネスコ賞のトロフィーも制作。パリの著名な芸術家五十人を扱った映画で紹介されたことがあり、作品集のスライドやDVDが製作されたという。
 渡仏して五十年がたつ。「夫は若いころにバイオリンを弾いていたこともあって音楽好きだった。ワイン、泡盛、黒糖焼酎を好んでいた」(ミサワさん)。
 ミサワさんはラジオ記者、雑誌記者、ワインコンクールの審査員など幅広く活躍してきた。今回、大島紬や黒糖焼酎工場などを見学し、数々の郷土料理を食した。「夫が念願していた奄美を訪れることができよかった。古いものが残っていることをうれしく思った」と感想を話した。
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