久慈に関西れんがのルーツ=瀬戸内町

久慈水溜跡のれんがを調査する山岡さん(手前)と鼎さん=6日、瀬戸内町

久慈水溜跡のれんがを調査する山岡さん(手前)と鼎さん=6日、瀬戸内町

 瀬戸内町教育委員会は6、7の両日、調査を進めている同町久慈の近代遺跡「久慈水溜(ため)(佐世保海軍軍需部大島支庫)」跡に大阪府の岸和田市教育委員会文化財担当長でれんがに詳しい山岡邦章さんを招き、現場指導を受けた。水溜跡のれんがは、幕末から明治にかけて同集落で稼働した白糖製造工場のれんがを改良したものとみられ、山岡さんは「関西系れんがのルーツがここ久慈にある。壮大な手間、ロマンを感じる」と話した。

 

 久慈水溜は1895(明治28)年に建設された。一方、白糖製造工場は1867(慶応3)年、薩摩藩による集成館事業の一環として、アイルランド人技師・ウォートルスを迎え、当時の世界最先端の技術で設計された。

 

 今回の調査で、水溜跡の基礎部分と施設本体のれんがはいずれも関西産であるものの、製造元が違うことが判明。建設順序として、基礎部分と同じれんが使われていた取水口、ろ水池を造った後、ある程度の期間を置いて水溜施設本体が造られたのではないか、と推察した。

 

 山岡さんは「ウォートルスによって小型化されたれんがが里帰りし、水溜建設に使われた。当時の関西系れんがの中でも最上質品であり、同遺跡がほぼ完全な状態で現存するゆえん。れんがの製造業者など詳細はさらなる調査が必要」と話した。

 

 瀬戸内町教育委員会埋蔵文化財担当の鼎丈太郎さんは「発掘調査をして分かったことも多かった。町内に残る他の近代遺跡でも調査を深めたい」と話した。