土俵の島 奄美③ 三本勝負から一本勝負へ

相撲ファンを熱狂させた高倉投げ=1952年、宇検村湯湾の豊年祭

相撲ファンを熱狂させた高倉投げ=1952年、宇検村湯湾の豊年祭

 戦後、奄美の日本復帰後、大和相撲は急速に普及していく。その過程で「シマジマ」(島相撲)にはない重要な変更があった。土俵とルールだ。

 

 終戦の翌年、1946年、名瀬市(現在の奄美市名瀬)で戦後第1回の大島郡相撲協会主催の相撲大会があった。琉球大学名誉教授の津波高志は協会相撲に出場した選手から証言を引き出した。〈協会相撲のドヒョウ(土俵)は今日のような土俵とは違っていた。ドヒョウの外枠は土を固めてつくられていたものの、俵の内側はかなりの量の砂が入れられていた。その厚さはくるぶしが沈み込むほどであった〉

 

 当時は投げ技が主流。土俵に砂が入っていないと怖くて取れなかった。投げ技で最も美しいとされたのが「高倉投げ」。柔道の内股のように、相手を高く跳ね上げる大技だ。1952年、宇検村湯湾の豊年祭で撮影された写真がその迫力を物語る。投げ技中心の相撲は「昔式」と呼ばれた。宇検村屋鈍の山下薫は昔式で1955~57年、横綱として君臨した。山下が相手の回しをつかんだ瞬間、観客は山下の勝ちを確信してどっと沸いた。山下は58年、押し相撲を得意とする力士に敗れ、引退した。理想としない相撲に負けたことがよほど悔しかったのだろう。

 

 現在の土俵に変わっていくきっかけとなったのが「祭典相撲」。奄美連合青年団が開催した「若人の祭典」の一環として奄美全域の「全郡相撲」が行われた。祭典相撲は56年から60年まで続いた。大会が始まった頃から、砂の入った土俵ではなく、大和風の土俵に変えようとの考え方が強くなり、現在の土俵に移行していく。

 

 もう一つ重要な変化がある。三本勝負から一本勝負への移行だ。三本勝負は一度の取組で3回取り2回、相手を倒せば勝ちとなる。戦後間もない頃まで奄美北部では三本勝負が行われていた。三本勝負では「中を入れる、入れない」が重要だった。「中を入れる」とは一矢報いる、一番は勝つとの意味。「互角の戦いをした」「健闘した」と敗者をたたえたのだ。中を入れさせず、連勝した場合は「二バンウチ」と言った。圧勝との意味だ。

 

 三本勝負から一本勝負への転機となったのが58年の第3回祭典相撲だ。大会に先立って主催者の奄美連合青年団は相撲関係者を招いて座談会を企画した。58年10月20日付の南海日日新聞によると、出席者は次のように述べている。「三本勝負を取っているのは奄美だけで、なるべく早く一本勝負に改めるべきだ。三本も取っては体力の消耗が激しく、いい相撲は取れない。年寄りたちの反対もあり、すぐには無理だろうが、若人の祭典では個人戦だけでも、一本勝負にした方がよかろう」

 

 座談会を経て大会は団体戦も個人戦も一本勝負が採用された。以後、奄美の広域相撲は一本勝負に変わった。

   =文中敬称略

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 本稿は今後、不定期で連載します。

     (久岡学)