奄美の復帰運動、継承を危惧 密航陳情団、師玉賢二さん93歳

陳情団として密航した体験を振り返る師玉賢二さん=22日、奄美市住用町の「住用の園」

陳情団として密航した体験を振り返る師玉賢二さん=22日、奄美市住用町の「住用の園」

 奄美群島が日本に復帰して、25日で67年となる。当時、本土へ密航し日本復帰を訴えた陳情団の1人、師玉賢二さん=奄美市住用町=は今年93歳となり、特別養護老人ホームに入所している。自らが経験した命懸けの復帰運動だが、「今の人たちに話してももう理解されないのでは」と危機感を募らせている。

 

 復帰運動が最も盛んだった1951年、師玉さんは24歳だった。旧住用村で青年団として復帰運動に携わっていた。名瀬で会合がある日は徒歩で山越え。片道4時間かかった。「田舎から復帰運動の会合に参加するのは大変。みんな、会の通知が来ると震えておったよ。泊りがけか欠席するしかなかった」

 

 復帰を願う署名が、住民の99%から集まり国会などに送られたが、奄美大島日本復帰協議会はさらに群島の市町村から代表を1人ずつ集め、陳情団を送る決定をした。当時の国境は口之島以北を境にした北緯30度線。同協議会は渡航許可を申請したが軍政府が却下。密航せざるをえなくなった。

 

 密航陳情団に自ら名乗り出たことで知られる師玉さんだが、当時を振り返り「本当は腹が立っていた」と本音を漏らす。住用村はなかなか代表が決まらず、このままでは「村の恥」と考えた。沈黙を破り師玉さんは「僕でよければ」と名乗り出た。「誰も名乗り出ず、本当腹が立ってね。ガハ(げんこつ)くらわさんばち思った」

 

 鹿児島では密航が知られて警察に逮捕され、留置場に入れられたことも。やっとの思いでたどり着いた東京では連合軍総司令部や各国大使館を回り、島民の思いを爆発させた。「戦争を始めたのはあなた方だ。奄美を復帰させないのはおかしい。私たちは本当の日本国土の人間で、心の底から日本に帰りたいんだ」

 

 復帰から67年。米軍統治下におかれ、命懸けで本土へ密航したころとは違い、今はインターネットで手軽に世界中誰とでも交流できる。今の人々に伝えたいことは、との質問に表情を曇らせた。「今の子どもたちに当時のことを言っても本心から聞いてるかわからん。世の中あんまりぜいたくになってるから。考え言ってもムダじゃがな」

 

 豊かな時代になり、復帰運動経験者も高齢化。当時のことを語る機会も減った。歴史の風化を感じることもあるという。このままでいいと思うかと尋ねると、声を振り絞った。

「…わからん」