父の遺品から軍政下の資料 「戦後処理の一端示す貴重な品」 名瀬佐大熊町の西村さん宅

父の遺品から出てきた米軍統治下の資料を広げる西村勝博さん=1月7日、奄美市名瀬佐大熊町

父の遺品から出てきた米軍統治下の資料を広げる西村勝博さん=1月7日、奄美市名瀬佐大熊町

 戦時中、名瀬湾に座礁して米軍の標的となり、市民を空襲から守ったとして〝名瀬の守り神〟と呼ばれた捕鯨船「極洋丸」(2万トン)の戦後処理に関する資料がこのほど見つかった。奄美市名瀬佐大熊町の西村勝博さん(65)が、亡き父清二さん(享年61)と母クニさん(享年92)の遺品を整理して発見。奄美博物館は「戦後処理に関してはあまり資料が残されておらず、大変貴重」と話している。

 

 清二さんは1896(明治29)年、徳之島町生まれ。勝博さんが生前のクニさんから聞いた話によると、戦前、奄美大島に渡り、屋仁川で「だるま湯」という銭湯を経営。戦中、戦後はスクラップ事業をしていた。しかし、勝博さんが1歳のときに死去。勝博さんは「父の直接の記憶はほとんどない」という。

 

 見つかったのは清二さんの取引先とみられる名刺の数々。中でも「社団法人アメリカンソサエテーオブジャパン大島支部」(当時の住所は本社・東京都、支部・名瀬市幸町)と書かれた名刺の裏には清二さんについて「右の者、当会所有の沈船極洋丸、丹後丸、江蘇丸、ルソン丸船骸品の買付委任者なる事を証明致します」と手書きされており、期間は「自昭和31年5月25日、至7月25日」とある。

 

 奄美郷土研究会報によると、極洋丸と丹後丸は1943年9月の台風で名瀬湾に座礁した14隻の輸送船団のうちの2隻。引き上げが不可能で名瀬湾に放置されていた。ルソン丸は45年2月に入港し、この3隻は45年3月、米軍機50機の来襲に遭い撃沈された。一方、これにより市街地は集中砲火を免れたことから「名瀬市の守り神」と呼ばれたという。

 

 清二さんの遺品からは、これ以外にも北九州市の製鉄所の名刺や「古物・屑物商」などと書かれた複数の名刺が見つかっており、奄美博物館は、清二さんが名瀬湾に撃沈された後の船の解体処理や残骸の鉄くずを買い付ける仕事をしていたと見ている。

 

 このほかにも、1941年の「名瀬町信用組合」への「出資証券」と記された証書や、52年に発足した琉球政府が発行した収入印紙なども見つかった。

 

 奄美市教育委員会文化財課の久伸博課長は「初めて見る資料もあり驚いた。米軍統治下時代の資料はあまり残っておらず、このような経済活動の一端を示す資料は非常に貴重。戦中、戦後の奄美の暮らしを知る重要な手掛かりになる」と話している。

 

 西村さんは「子どものころから聞いていた父の人生がほんの少し見えてきた。遺品を通して父に会えたようでうれしい」と話している。

 

 清二さんの遺品は1月、奄美博物館に寄贈された。同館は2023年の日本復帰70年に向け、資料の提供を呼び掛けている。