藤野軍曹の真相を追って 足かけ7年、証言を記録 有田義孝さん

住民の証言を水彩画にまとめた有田さん=19日、姶良市

住民の証言を水彩画にまとめた有田さん=19日、姶良市

 太平洋戦争で日本が劣勢に立たされていた1945年4月22日。徳之島町の母間海岸沖に1人の特攻隊員が散った。沖縄戦に向けて知覧基地(現南九州市)から飛び立った旧陸軍の藤野道人(よりと)軍曹。福岡で生まれ、21歳の若さだった。

 

 戦闘死か事故死か。彼の最期を巡ってはさまざまな見方がある。家族へ届いた死亡告知書(戦死公報)に記されていたのは「戦闘死」。特攻隊員の恩典である2階級特進は認められず、一般戦死扱いの1階級昇進だった。

 

 戦後30年がたった75年10月。藤野軍曹の遺族が母間を訪ね、住民の話をまとめたレポートを残している。

 

 昭和20(45)年3月15日(旧暦)夕刻、母間から約15㌔沖のトンバラ岩上空で激しい空中戦が行われた。住民は岩陰や草むらに身を潜め、息をこらして見守っていた。

 

藤野軍曹が乗っていた戦闘機と同型の旧陸軍九七式戦闘機=4日、福岡県筑前町の大刀洗平和記念館

藤野軍曹が乗っていた戦闘機と同型の旧陸軍九七式戦闘機=4日、福岡県筑前町の大刀洗平和記念館

 黒い機影がいくつも海に散り、そのうち2機が沖に爆弾を落として島に向かってくる。1機はふらふらと海に落ち、他の1機はその場を低空で旋回した後、島の西方の飛行場に向かって飛んでいった。

 

 2011年3月、母間出身の男性が知覧特攻平和会館(南九州市)でレポートに目を通した。元小学校教諭の有田義孝さん(76)=姶良市。藤野軍曹の話は聞いていたが、自らも証言を集めようと思い立った。知覧で知ったことを伝えるため、同郷の先輩にかけた電話がきっかけになった。

 

 「義孝、うりやあなん(それはうそだ)」

 

 声の主は母間で育った本田勉さん(85)=奄美市名瀬。12歳だった戦争末期、本田さんは藤野機が落ちた様子を見ており、「その日に戦闘はなかった」と明言した。

 

 有田さんが当時を知る他の住民に話を聞くうち、目撃証言との食い違いが出てきた。遺族のレポートを他人の自分が覆してもいいのか。葛藤と向き合いながら取材を続けてきた。

 

 根底には自らの戦争体験がある。神戸市で生まれた日の10日後、日本は太平洋戦争に突入した。

 

 米軍の空爆を受け、母におぶわれて炎の海を逃げ惑った記憶。空襲警報のうなるようなサイレンの音は、今も耳に残っている。船乗りだった父は軍属として出征し、台湾沖で亡くなった。

 

 「もし15年早く生まれていたら、自分も似たような死に方で果てていたかもしれない」

 

 藤野軍曹の人生に自身の戦争を重ね合わせ、突き動かされるように古里へ通った。

 

 足かけ7年。証言を記録するため57枚の水彩画を描き、展覧会を開くことになった。

 

 風化する戦争の記憶とどう向き合い、伝えていくか。

 

 「戦禍の記憶を生傷として感じていれば、過ちは繰り返さない。まずは知ることから始めたい」

 

 戦後73年を迎える今年の夏。8月1日に姶良市で始まる展覧会を前に、有田さんの水彩画や住民の証言を紹介する。

藤野軍曹の写真を基に有田さんが描いた鉛筆画

藤野軍曹の写真を基に有田さんが描いた鉛筆画