防空壕跡で慰霊祭 奄美市笠利町

慰霊碑に向かって祈りをささげる遺族ら=6日、奄美市笠利町中金久

慰霊碑に向かって祈りをささげる遺族ら=6日、奄美市笠利町中金久

 終戦直前の1945(昭和20)年8月6日に奄美市笠利町中金久の防空壕(ごう)が爆撃され、40人が亡くなった悲劇から75年目の同日、跡地で慰霊祭が開かれた。地元赤木名地区や名瀬の遺族12人が犠牲者のみ霊に祈りをささげ、恒久平和の思いを新たにした。新型コロナウイルス感染拡大防止のため島内在住者に参加を絞った。

 

 現場は笠利公民館裏手の山裾。当時は民家敷地にあり、所有者の築島吉介氏の名前を取って「吉介壕」と呼ばれていた。2カ所の入り口を有するコの字型をしており、堅剛な防空壕として知られていた。

 

 午後1時ごろ、米軍機が襲来。築島家や地元住民、青年学校の生徒、喜界町や和泊町出身の教員ら1歳から74歳までの老若男女が犠牲になった。遺体の収容は空襲を避けるため夜間に行わなければならず、1週間続いたという。

 

慰霊碑に向かって祈りをささげる遺族ら=6日、奄美市笠利町中金久

慰霊碑に向かって祈りをささげる遺族ら=6日、奄美市笠利町中金久

 遺族でつくる赤木名慰霊碑会は戦後30年の75年、防空壕跡に慰霊碑を建立した。隣の納骨堂には壕内に残っていた遺骨が収められている。この日は全員で黙とう後、一人一人焼香して静かに手を合わせた。

 

 会員は現在15人。毎年慰霊祭を開催しているが、高齢化が進み次世代への継承が課題となっている。平田博三会長(78)は「一瞬で40人の命が奪われた防空壕は戦争遺跡といってもいい。しかし赤木名でも知っている人は少なくなった。大切に引き継いでいかないといけない」と話した。