集団疎開が縁、続く交流 当時を知る男性も 伊佐市と喜界町

喜界島から疎開した家族が住んでいたという畜舎の2階で当時の様子を語る松下さん=15日、伊佐市菱刈

喜界島から疎開した家族が住んでいたという畜舎の2階で当時の様子を語る松下さん=15日、伊佐市菱刈

 【鹿児島総局】県内有数の米どころとして知られる伊佐市と喜界町が息の長い交流を続けている。喜界から伊佐市菱刈への学童疎開がきっかけで姉妹都市になって53年。子どもたちを派遣したり、災害のときには支援し合ってきた。変わらない人情が両地域の架け橋になっている。

 

 喜界町は小中高校生が「青少年交流団」として伊佐市を訪ね、自然や歴史に親しんできた。夏には伊佐市の子どもたちが喜界町で住民と交流する。

 

豪雨災害の復旧のため伊佐市から喜界町に派遣された市の職員=15日、伊佐市菱刈

豪雨災害の復旧のため伊佐市から喜界町に派遣された市の職員=15日、伊佐市菱刈

 今年は伊佐市にとって想定外の出来事が起きた。霧島連山・えびの高原(硫黄山)が噴火し、川内川の水質が悪化した。土壌汚染を防ぎ、ブランド米を守るため市は川内川から取水する水田での稲作を中止。全農家の4分の1に当たる500戸に影響が出た。

 

 喜界町は町の財源や幹部職員、議員の寄付で義援金66万円を贈った。職員もカンパを集めている。

 

 伊佐市の隈元新市長に義援金を届けた喜界町行政管理室の中村幸雄さん(51)は「子どもたちの交流だけでなく、困ったときの助け合いも続いている。稲作を続けている農家のお米は安全だということを広く伝えたい」と言う。

 

 伊佐市は喜界町が豪雨災害に見舞われた昨年、技術職員4人を派遣した。農地の復旧を手伝った市農政課の柳田安武さん(47)は運動会にも参加。島の人情に触れ、「行く先々で温かく迎えてもらった。次は家族を連れて旅したい」と話した。

 

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 旧菱刈町の郷土史によると、1944年7月、薩南諸島の住民に対して強制疎開の命令が県知事から出された。太平洋戦争の戦況が悪化する中、離島から本土への疎開が進んだ。

 

 喜界島(旧喜界町、旧早町村)では60歳以上のお年寄りや女性、子どもが対象になった。県北の穀倉地帯で海岸線から遠い伊佐郡本城村(現伊佐市菱刈)には104世帯449人が家族ぐるみで集団疎開してきたという記録もある。

 

 菱刈には当時を記憶している男性がいる。代々米を作ってきた松下竹二郎さん(81)だ。馬を飼っていた畜舎の2階を住居用に改築し、喜界島から6人家族を迎え入れた。

 高齢の父母と娘、娘の子どもたち。松下さんは同年代だった5~6歳ぐらいの女の子と親しくなり、庭でよく遊んでいた。

 

 今でも耳に残っているのが「トン、トン」という機織りの音だ。「食料が足りずに生活は苦しかった。それでもお母さんのような女性はいつも優しく接してくれた」と懐かしむ。

 

 一家が喜界島に帰った後は連絡を取らないまま70年が過ぎた。その後の暮らしは分かっておらず、松下さんは「あの女の子は元気だろうか。もう一度話してみたいし、喜界島の青い海も見てみたい」と再会を願っている。