島で生きる② 「やりたいこと島でもできる」 福山亜希子さん、奄美テレビ社員

2021年03月24日

地域

奄美テレビ本社の収録スタジオでトーク番組に出演する福山さん=2月26日、奄美市名瀬

奄美テレビ本社の収録スタジオでトーク番組に出演する福山さん=2月26日、奄美市名瀬

 本番3分前、30秒前…始めまーす。

 

 奄美市内のケーブルテレビ局「奄美テレビ放送」本社のスタジオ。生放送の人気トーク番組「ユムグチ800」が始まった。入社4年目の福山亜希子さん(42)がカメラを前に軽妙なトークを展開させる。東京のテレビ局で15年働き、帰島。迷わずこの会社の採用試験を受けた。撮り続けたい自分が働ける場所。「奄美にテレビ局があってよかった」

 

 1980年代、子どもの頃から生粋のテレビっ子。歌番組に夢中になった。ブラウン管越しのキラキラした世界。いつかは自分も向こうの世界で働きたい―。夢を決定付けたのは、くしくも現在、自身が所属する奄美テレビのインタビューだった。小学生だった頃、運動会の後に感想を聞かれた。初めて向けられた本格的なテレビカメラとマイク。ドキドキした。

 

 テレビ業界を目指し、大学進学のために上京。しかし、現実は甘くなかった。就職試験は全滅。テレビ局の正社員になれるのは全国でもほんの一握り。番組の9割は下請けの制作会社が行っているという。知り合いに頼み込み、ようやく制作会社に職を見つけた。

 

 がむしゃらに働いた。画面に映らないカメラの後ろ側には無数の仕事があった。スタッフの弁当の買い出しから過去の番組資料探し、番組宣伝の手伝いなど。憧れの芸能人と知り合っても高揚感は無く、「人の3倍働く」と決め打ち込んだ。やがて全国放送の報道番組制作にも携われるまでになった。

 

 転機となったのは父の死。孤独になる母を1人島に残すわけにはいかなかった。東京でやり残したことはあったが帰島を決めた。「奄美にもテレビ局はある」。規模が小さい同業他社への転職に、やりがいはあるのかと危惧する声もあったが迷いはなかった。修羅場を経験し、どんな環境でも番組を作る自信があった。

 

 正社員に採用されたものの、給料は東京の3分の1ほど。移住初年度に請求がきた都からの税金は高額で、月給から支払うと手元にはわずかな額しか残らなかった。思ったような番組も作れず、一度は公務員試験を受けたことも。だが、給料のために違う仕事を選ぶことに葛藤し、悩んだ末に再びテレビ業界に戻ってきた。

 

 納得のいく労働条件の会社に就くのは一筋縄にはいかない島社会。情熱だけで何歳まで働くことができるかは正直分からない。しかし今あらためて思う。島で働くのに一番大事なことは「自分の会社を好きになること」だと。インターネットの無料動画投稿サイトなどが流行する現代だが、自ら手掛ける自社の自主制作番組が一番面白いと胸を張る。

 

 いつか島の子たちが帰ってくるときに「あの会社があったな」と思われる会社でありたい。目標は1人でも多く島の子どもたちをテレビに出すこと。かつての自分がそうであったように。

 

【プロフィル】

ふくやま・あきこ 1978年生まれ。奄美市名瀬出身。金久中、大島高、大東文化大卒。2001年、東京のテレビ番組制作会社に入社。2017年、奄美テレビ入社。