土俵の島 奄美② 相撲は島民の希望

2019年05月04日

地域

1920年、大島角力協会発足時の写真。筋骨隆々とした力士(奄美博物館所蔵)

1920年、大島角力協会発足時の写真。筋骨隆々とした力士(奄美博物館所蔵)

 前回は奄美の大和相撲が近世から始まったことを紹介した。今回は沖縄相撲と同じ島相撲が消え、大和相撲一色になっていく経過を見ていきたい。

 

 奄美諸島全体が大和相撲一色になったのはさほど古い時代ではない。ロシア文学研究者でもあり、初の奄美通史「大奄美史」を著した昇曙夢(のぼり・しょむ)(本名・直隆)(1878~1958)はそれに「大島(奄美)の相撲には二種あって、琉球風は専ら徳之島、沖永良部、与論島に行はれ、大島本島(奄美大島)や加計呂麻島では専ら内地風の相撲が行はれる」と書いている。琉球風の相撲はシマジマ(島相撲)と呼ばれ、いまの沖縄相撲である。組み合って相手の両肩を地面につけてようやく勝ちとなる。

 

 大和相撲と島相撲が混在するとどうなるか。伊仙町(徳之島)に面白いエピソードが残っている。戦後間もない頃、阿権神社で相撲大会が行われた。「年寄り」のなかに相手を倒してひっくり返して、なお両肩を地面につけようとする者がいた。負けた方は怒り、けんかになった。「勝負はついているのに、そこまでするか」という訳だ。年寄りは島相撲を取り、若者は大和相撲を取った。異種格闘技戦が行われた結果、トラブルになった。ルールが統一されるまでしばらく相撲大会は中止となった。

 

 奄美大島全体の規模で大和相撲の大会が本格的に行われるようになったのは大正時代。海軍帰りの人々が広めたことがきっかけだった。1920(大正9)年、大島角力協会が発足し、1932(昭和7)年まで続いた。今なお語り継がれる伝説の力士がいた。山下辰次郎(宇検村屋鈍出身)がその人だ。山下は軍艦「敷島」の乗組員。海軍相撲で活躍し、艦長から「谷の音」の四股名と化粧回しをもらった。退役後、帰郷し協会相撲の土俵に上がった。引退するまで無敗を誇った。谷の音の化粧回しは2010年6月、奄美博物館に寄贈された。

 

 大和相撲は戦後、急速に普及する。転機となったのが本土との行政分離だ。奄美の島々は1946(昭和21)~53(昭和28)年の8年間、米軍政下に置かれ、本土との行き来も制限された。戦後の混乱と、貧困で人々は疲弊しきっていた。

 

 知名町誌に「最初、有川薫允が協会長として相撲を始め、昭和22年には吉松軍八に代わり、和泊町の協会長、前(すすめ)久茂と手を携え、相撲の発展に努力した」とある。「伝統的な島相撲は意識的に普及することはない。記述の相撲が大和相撲であることは明白」(琉球大学の津波高志名誉教授)

 

 前は冊子「前久米の始祖物語」で当時を述懐した。「沖縄米軍基地に近い沖永良部地区の場合、進駐軍に対する恐怖、流言なども手伝い、心身ともに虚脱状態にあった。町民に活を入れ、復興へ立ち上がらせるために、まずスポーツを取り入れよう。永良部大衆が最も好む『相撲から始めよう』と協会は設立されました」

 

 相撲は島民の希望になった。

   =文中敬称略

    (久岡学)