被災乗り越え、食堂再建 奄美出身の大原さん夫婦 「皆さんの支援のおかげ」 阪神大震災30年
2025年01月18日
特集

震災を乗り越え食堂ののれんを守ってきた大原誠治さん・明美さん夫婦=15日、神戸市兵庫区の大弘食堂
阪神淡路大震災の発生から17日で30年を迎えた。震災で経営する食堂が全壊する被害を受けたにもかかわらず、先代から続くのれんを守り、営業を続けている奄美出身の夫婦がいる。神戸市兵庫区にある「大弘食堂」の大原誠治さん(78)=宇検村須古出身=と明美さん(79)=奄美市名瀬大熊町出身=だ。二人は「皆さんの支援のおかげでやってこられた」と共に歩んできた神戸の人たちに感謝している。

震災で全壊した大弘食堂=1995年1月17日(提供写真)
大弘食堂は、誠治さんの父真さんと母ウトエさんが1953(昭和28)年に宇検村から神戸市に移り住んで屋台を始めたのがルーツ。誠治さんは小学2年生だった。59年には同市兵庫区の新開地駅から徒歩5分ほどの場所に食堂を構えた。誠治さんと明美さんは71年に結婚。夫婦で食堂を手伝い、その後のれんを受け継いだ。
順調だった生活が一変したのは1995年1月17日午前5時46分の大地震。「ドカーンと縦に揺れた後に激しい横揺れが続いた」(明美さん)。家族は無事だったが、誠治さんが自宅マンションからほど近い食堂が気になって確認に行くと、見るも無残な姿となっていた。調理器具など商売道具も全部壊れていた。
実は震災の2~3年前までは、子どもたち2人と4人で食堂の2階に暮らしていた。「狭かったので引っ越した。もしそのまま住んでいたらみんな助からなかった」(明美さん)。実際に「周囲では多くの人が亡くなっている」(誠治さん)という。
しばらくは食堂の再建などを考える余裕はなく、生活のため誠治さんは慣れない力仕事に従事。明美さんもパートで家庭を支えた。
数カ月後、新開地駅のすぐ近くに空き物件があることを知り、再建を決断。明美さんの妹の山畑チエ子さん=大阪市在住=の夫・望さん=瀬戸内町久慈出身=が工務店を営んでいたことから内装などを短期で施し、震災から8カ月後には食堂を再開することができた。
新しい店はカウンター8席と前の半分ほどと小さくなったが、駅前で立地はよい。誠治さんによると、近くの公園に仮設住宅が建てられたことや、震災復興の工事関係者がたくさん来て繁盛した。
大弘食堂のメニューは中華そばや焼き飯、八宝菜など中華やかつ丼、カレーライスなど40種類ほど。おかず類の小皿も並ぶ。中華そばは400円と格安だが、数年前に値上げした後の値段というから驚く。真さんからその味を受け継いだ明美さんは「見よう見まねで覚えた。味は頑固に変えていない」と話す。
「ごっそさん(ごちそうさん)」「まいどおおきに」。明美さんが手際よく調理し、仕入れも行う誠治さんが接客しながら配膳する。時折、冗談を飛ばしながらお客さんと夫婦の笑顔が絶えない庶民の憩いの場のような食堂だ。
誠治さんは「神戸の人たちはとても優しい。だからこそあの震災を乗り越えられた。皆さんの支援があったからこそ」。明美さんは「もう30年にもなるんやな。年を取ってしんどくなってきたが、お客さんとの会話は楽しいし、あと4~5年は頑張るで」。