泉有平の功績考察 琉大・野入准教授講演

2022年05月12日

地域

泉有平をあらゆる視点で考察する琉球大の野入准教授=8日、奄美市名瀬

戦後、米軍統治期の沖縄で琉球政府の副主席を務め、沖縄奄美連合会の会長として奄美出身者の処遇改善に取り組んだ加計呂麻島出身の泉有平(1903-79年)の歴史的役割を考察する講演会が8日、奄美市名瀬の県立奄美図書館であった。沖縄と奄美の現代史の中でもあまり光が当たってこなかった泉。琉球住民の保護と自由を目指し奔走した功績について、聴衆は学びを深めた。

 

奄美郷土研究会の例会。琉球大学の野入直美准教授が「奄美籍の琉球政府副主席・泉有平とは誰か」と題して講演した。

 

泉有平

泉は瀬戸内町須子茂生まれ。九州帝国大学卒業後、朝鮮総督府、満州国農事試験場を経て奄美に引き揚げ、大島高校初代校長に就任。1950年に琉球臨時諮詢(しじゅん)委員の大島代表代理として沖縄本島に渡った。

 

51年、琉球臨時中央政府の副主席と立法院議長に就任。52年に琉球政府が設立された際も副主席・立法院議長を担った。ところが翌53年、奄美群島が日本に復帰したことで公職を追放。その後は日本政府南方連絡事務所の次長として、模範農場の設立に尽力した。

 

泉の副主席就任は琉球列島米国民政府による指名だったと野入准教授が説明。「当時の人たちの注目は、指名された奄美出身の泉よりは、選挙で選ばれた立法院の議員たちの方に向いていたと地元紙を見ていてうかがえる」と解説した。

 

また琉球臨時中央政府の設立式典で泉が準備していたスピーチ原稿を紹介。「琉球民族の身体、財産、自由を守り、大きく前進する」などと書かれた部分に斜線が引かれ、読まれなかったという。野入准教授は「米軍当局の直接指示か泉本人の考え直しかは定かではない」としながら「非常に厳しい間接統治の時代であったことがうかがえる」と指摘した。

 

このほか、副主席時代に導入した煙草消費税で、沖縄のたばこ製造業(工業)と葉たばこ生産農家(農業)を保護し、沖縄の産業振興に携わった実績や、模範農場の設立に尽力したことなどを解説した。

 

泉は沖縄奄美連合会長に就任し、奄美の日本復帰後に「非琉球人」となった奄美の人々の永住権を求めて琉球政府に何度も請願書を送り続けた。また大島高校校長に着任した際には米軍当局に呼び出され、学生の思想について尋問を受け、心配する生徒たちを前に「学校のことは学校に任せてください」と言って安心させたエピソードなどを紹介した。

 

奄美の復帰史においては、「米国に協力信頼感を与えることが復帰への道」と所信声明を出したことがある泉だけに、一部には「米軍の協力者」との認識があることにも言及。一方で、「やろうとしてできなかったことが多く、無念が泉の人生を貫いていることは間違いない。しかしその中でできることをやり、その影響は決して小さくない」と評価した。