「医療界の革命児」「保徳戦争の印象」 訃報に驚きと悲しみ広がる 奄美群島

2024年07月12日

社会・経済 

離島医療の一翼を担う徳洲会グループの名瀬徳洲会病院=11日、奄美市名瀬

徳田虎雄さん(86)の死去を受けて11日、奄美でも驚きと悲しみの声が広がった。「生命だけは平等だ」の理念の下、「医療界の革命児」と呼ばれ、離島やへき地に病院や診療所を次々に開設。「保徳戦争」で故保岡興治さんと激しい政争を繰り広げた一方、徳洲会を国内最大の民間医療グループへと発展させ、医療の発展に力を尽くした徳田さんの功績をたたえつつ、冥福を祈った。

 

龍郷町出身で、1年半前に東京から奄美市名瀬にUターンした渡五九雄さん(51)は「東京では、『徳田虎雄を知らないのか』とよく言われ、書籍を読んだ。とてもじゃないけどまねできない功績を残したすごい人。惜しい人を亡くした」と寂し気。父が徳之島出身という奄美市名瀬の女性(44)は「小学生の頃に保徳戦争があり、その印象が強い。小さな診療所がなくなることが多い中、離島に大きな病院や介護施設があって助かるし、ありがたい」と、医療人としての功績に感謝した。

 

衆院奄美群島区の選挙の時に徳田さんが自宅に来たという奄美市名瀬の峰元トヨさん(86)は「いつも朗らかでにこにこして、素晴らしい方だった。月に一度名瀬徳洲会病院に通っている。病院が身近にあり、みんな助かっている」と語った。

 

政治家としての側面に対する評価も。奄美市名瀬の男性(72)は「難病にならなければ、奄美はもっと面白くなっていたのではないかと思う。自分の信念に向かって突き進むガッツがある。今の奄美の政治家でそのような人はいるだろうか」と語った。

 

一方、「難関大学に合格し、医者としては立派。多くの病院を設立した実績はすごい」としながらも、「選挙に出てからは自分の病院を守るために闘っていたように見えた。政治センスは評価できない」(奄美市名瀬の71歳男性)との声も聞かれた。

 

喜界町の元町議会議長で喜界徳洲会病院健康友の会会長も務めた外内千里さん(69)は「医師中心から患者中心の医療にされたのは徳田さんの大きな功績。島外治療の住民負担が大きい中、病院を開設し安心して住める島にしてくださったことに感謝している」と遺徳をしのんだ。

 

徳田さんの地元徳之島町で酒店を営む秋丸昌久さん(82)は「青年会議所にいたころ徳田さんとお会いし、『君たちも島のために頑張れ』とハッパを掛けられた。自身の熱量もすごかったが、話した相手もたきつけて熱くする人だった。功罪あったとは思うが残してきた功績を振り返ると日本を代表する人物。それだけに亡くなられたことが残念でならない」。

 

伊仙町の建設業、豊憲寛さん(81)は「大きな目的のためには手段を選ばず実現する力があり、自信と行動力にあふれる人物だった。敵も多かったが、日本の医療の進歩に大きく貢献したことは疑いようがない。病に倒れなければ世界で活躍していたはず。あれほどの傑物が徳之島から現れることは今後ないだろう」とその功績をたたえた。