特攻機の青年、老女が記憶 終戦間際、大和村今里に不時着 「奇跡。早く奄美に」と遺族

2020年10月24日

地域

越村さんの飛行機が不時着した当時のことを語る安原さん=9月12日、大和村今里

越村さんの飛行機が不時着した当時のことを語る安原さん=9月12日、大和村今里

 「ひどいやけどを負った青年がめちゃくちゃになった飛行機の横でぼうぜんと立っていた。あの光景は一生忘れられない」│。終戦間際の1945年5月26日、大和村今里集落に不時着した元特攻隊の越村宰(こしむら・つかさ)さんについて、同集落に住む安原フミさん(91)が当時のことを覚えていた。情報を募っていた息子の知史さん(52)=石川県金沢市=は「話を聞き、記録でしか知らなかった当時の父のことが臨場感を持って頭に浮かび上がってきた。早く奄美に行き、直接感謝を伝えたい」と語った。

 

 安原さんは当時15歳。その日、一機の飛行機が海の方から集落西側のタバルと呼ばれる水田のある場所へ向かって低空飛行し、山裾にぶつかった。住民は当初、不時着したのは米軍機だと思ったらしい。当時区長だった蘇畑ヒロノリさんの号令で住民たちが竹やりを手に駆け付けると、大破した機体の横で青年が立ち尽くしていた。

 

 「お父さんお母さん、自分はこんなことになってしまった。どうしよう」。そう言って泣いていたのが、鹿児島県の知覧基地から第110振武隊(隼血風隊)として沖縄へ向けて出撃した当時18歳の越村さんだった。安原さんたちはその声を聞き、青年が日本人だと気付いたという。

 

 青年は蘇畑さん宅へ運ばれて蘇畑さんの親戚の福永ウシナさん、ノブコさん姉妹らの看病を受け、翌日早朝に集落の男性8人によって軍司令部のあった瀬戸内町に搬送された。安原さんはその後の安否を知らずにいたが、古里の戦争の記憶として子どもたちや集落の若者へ青年の話を語り聞かせていた。

 

 越村さんは生還し、結婚して1967年に石川県に帰郷。晩年は亡くなった戦友たちの慰霊に心を砕き、2001年に74歳で亡くなった。一人息子の知史さんは父の死後、その生涯を調べる中で戦時中に宰さんが不時着した場所が今里集落だと知り、今年8月27日に南海日日新聞社を通して情報提供を呼び掛けた。

 

 情報を求める記事が掲載されてすぐに、「安原さんが語る特攻隊の青年は宰さんのことではないか」という匿名の電話が知史さんに届いた。知史さんから連絡を受けた大和村役場の三田ももこさんが安原さんに当時の話を確認。看病した人たちの情報など宰さんが残した記録とは若干異なる部分もあったが、安原さんの覚えていた「青年」は若き日の宰さんに間違いなかった。

 三田さんらから報告を受けた知史さんは「仏壇の前で父母に報告をした。奇跡のような話で、日に日に奄美へ行きたいという思いが強くなっている」と感謝。

 安原さんは「あの日の兵隊さんが生きていたと分かり驚いた。息子さんのことを思うと涙が出るような思い。お会いできる日を待ちたい」と話していた。

 知史さんは来年1月中旬ごろに奄美大島を訪れる予定。

上空から見た今里集落。右奥の山裾に水田があったという

上空から見た今里集落。右奥の山裾に水田があったという