「復帰前夜」にタイムスリップ 沖永良部高校「学校日誌」を読む
2021年01月03日
地域
沖永良部高校に米軍政下(米軍占領時代)の「学校日誌」が残っている。軍政下の日誌は1950年8月~52年3月。沖永良部、与論島民を復帰運動に駆り立てた「二島分離報道」(52年9月)当時の日誌は残念ながら残っていないが、日誌をひもとくと「復帰前夜」の高校生や教職員を取り巻く状況、島民の暮らしに加えて住民と米軍との関係も見えてくる。住民目線の「復帰史」がここにある。軍政下の沖永良部にタイムスリップしてみた。
■米軍、高校敷地整備に協力
【1950年8月】
7日 久しぶりの来校に農場の植物、雑草の伸びていることに驚く。特にキビが成長している。工程も雑草が自然に繁っている。
【同年10月】
18日 20日発の金十丸で軍政府から学校視察に来るから、□はその打ち合わせを行う。
19日 和泊小学校で校長会。軍政府からの教育視察団に対する打ち合わせ。
21日 選挙状況視察のため、軍政府のシーハン氏来島。
22日 知事選挙期日。
〔群島の動向〕同年10月は米の対日講和交渉の基本方針が伝わり、奄美では群島政府組織法が公布された。群島知事選挙が行われ、中江実孝氏が当選した。
【同年11月】
22日 1年生、2年生、別科生、大山に茶摘みを兼ね、遠足を行った。途中、米軍兵舎見学。
【同年12月】
10日 高校敷地地鎮祭は今日、午前11時半に行われた。高校全員、政府工務技手、役場関係者参列、傾斜地凹地あり、変化に富んだこの原野がいよいよ高校建設に着工され、変わり行く姿を思い、感無量でした。
11日 高校敷地地均(なら)し着工の1日目。米軍ブルドーザー2台をもって工事に着工するので、生徒は見学のため学校は休業。
24日 明日のクリスマスカードの指導を生徒数名になす。
■日本国憲法に関心
【51年1月】
12日 伊集院先生、遭難船救助依頼のため、警察の通訳として大山米駐屯軍キャンプ地に出張された。
17日 遭難船は無事だとの電信があった由。
20日 アメリカ兵、来訪。日本語を勉強したいと。
【同年2月】
4日 白砂のまかれた通路が正月気分をそそっていた。
【同年3月】
12日 午前10時から全郡教員大会に出会の朝戸先生の報告会が和泊小校庭で開かれた。本土復帰運動については署名開始及び早急に支部結成のこと。
18日 ニュースによれば京城(ソウル)はまた国連の手に帰した由。
【同年4月】
19日 教育基本法第3条「信条」は「信仰」ではないかと思っていたが、憲法14条も信条とあるので、疑いが晴れた。
【同年5月】
1日 昨日の協議会の報告を伊集院先生がなさった。①永良部は43%の余剰食糧がある②5千屯(トン)の米を輸入する。増産協調は矛盾ではないかなど、論ぜられた由。
30日 アメリカ南北戦争戦死者の慰霊祭で本日は公休。
【同年6月】
3日 校庭は午後から大山部隊との野球試合、始まる。観衆、ひきもきらずに農場の中を校庭に急ぎ行く。白人の叫声が本校庭に高く響くことも空前の現象で珍しい。昇曙夢、大奄美史到着。
24日 農繁のためか、生徒の出方がいつもより少ないようでしたが…。
【同年7月】
3日 明日は独立記念日で休業だということに気づいて生徒に連絡しようとしたら、すでに帰宅後で代休を取ることにした。
【同年11月】
和泊丸遭難(死者17人、行方不明多数)
【同年12月】
17日 ダレス氏へ「復帰運動セイ□電打て」と大高自治会から本校自治会へ、佐伯先生処理。
〔群島の動向〕この年の奄美は復帰運動が燃え広がった。7月13日に名瀬市民総決起大会が行われ、軍政府からプラカード撤去命令が出た。8月には奄美大島復帰協議会の泉芳朗議長が名瀬の高千穂神社で断食祈願を行った。9月は対日講和条約調印、日米安全保障条約調印があった。12月は米民政府が十島村の日本復帰を発表した。
※□は判読困難。
■自給自足的な食糧供給 日誌が見えてくるもの
日誌が書かれたのは復帰運動の激動期の前後。沖永良部の復帰運動を担ったのは青年団と高校生、教職員だが、これらに関する記述がほとんどみられない。とはいえ国際情勢には敏感であり、ラジオから流れる朝鮮戦争や米国、ソ連、中国の動きには高い関心を持っていた。もう一つは当時、奄美群島に適用されていない日本国憲法に対する関心の高さ。昇曙夢の「大奄美史」(1949年出版)を取り寄せていたことも興味深い。
三つ目は米軍基地の存在。大山には名瀬の軍政府とは関係のないレーダー基地があり、基地で働く人も多かった。沖永良部高校の敷地造成に協力したり、野球の試合をしたり、友好的だった。復帰運動に米軍がジープを出したことも知られている。四つ目は西暦と旧暦の混在。公的な暦は西暦であり、生活暦は旧暦だった。日誌には農繁休暇が頻繁に出てくる。貧しくても自給自足的な食糧供給があったことを伺わせる。
(知名町中公民館・前利潔)
■復帰運動の先鋒、沖高生
学校日誌には記述されていないが、沖永良部高校の存在価値を一段と高めたのが日本復帰運動だった。普通科第4回卒の竿田富男さん(85)=和泊町国頭=は「復帰運動の先鋒、沖高生」と題し、同校創立70周年記念誌に寄稿した。
沖高生が本格的に復帰運動に取り組むようになったのは1952年9月の「二島分離」報道がきっかけとなった。「奄美復帰史」によると、毎日新聞はマーフィ大使が「北緯27度半以北の奄美諸島」という表現で施政権の返還問題を考慮中であると報じた。「奄美は一つの島が欠けても奄美でなくなる」。その後、外務省は沖永良部・与論両島の分離は聞いていないとことが明らかになったが、「分離情報」は断続した。沖永良部・与論の危機感は高まるばかり。
〈新聞報道を受け、いち早く行動したのが沖高教職員・生徒でした。「今こそ自分たちの権利を主張し、日本復帰を果たさねば沖永良部・与論の未来はない」と、街頭デモに打って出ます。プラカードを掲げ、メガホンを手にして日本復帰運動の行進です。「沖永良部・与論を切り離すな」と声を枯らして叫びました〉
国語の佐伯植美教諭は即興で「復帰の歌」の歌詞を作り、その後、音楽の柴喜与博教諭が曲を作った。「なんで帰さぬ永良部と与論」。決起集会などで事あるごとに歌われ、運動を盛り上げた。
〈当時、大山に駐留していた米軍までも同調し、軍用トラック(運転手付き)を貸してくれました、わずかな音楽部員と学年代表が乗り合わせ、島内を一周して呼び掛けます。国境を越えた民族の叫びとなって電波に乗り、アメリカ本土へと届くことになります〉
奄美は53年12月25日、日本復帰。沖永良部高校は鹿児島県立へと移管し、生徒たちは本土の大学に進学できるようになった。竿田さんもその一人だ。
竿田さんは寄稿をこう結んだ。〈一高校の復帰運動は群島全体の世論を高めた。復帰運動を顧みるとき、高校生として勉学の身でありながら時機を失することなく、仲間と共に行動できたことに悔いはなかったと思い、誇りにさえ思う〉