戦後77年「戦跡は伝える」~安脚場砲台跡から~(上) 要塞となった大島海峡

2022年08月15日

地域

大島海峡東口の防衛を担った安脚場砲台跡。右側には太平洋が一望できる=12日、瀬戸内町(本社ドローンで撮影)

奄美大島と加計呂麻島に挟まれた大島海峡。リアス海岸の複雑な地形が天然の要塞(ようさい)として注目され、明治期から太平洋戦争終結まで旧日本陸海軍のさまざまな軍事施設が海峡を挟むようにして構築された。陸海の軍事施設が混在する加計呂麻島の安脚場(あんきゃば)戦跡を中心に、同町の近代遺跡から奄美群島の戦争の歴史を読み解く。

 

安脚場戦跡は加計呂麻島の東端、安脚場集落から金子手(カネンテ)崎にかけての山地にあり、遺跡の一部が公園として公開されている。太平洋と大島海峡を一望できる同所は、第一次世界大戦終結から2年後の大正10(1921)年、陸軍の「奄美大島要塞」の一部「安脚場砲台」として着手された。

 

着工直後、ワシントン海軍軍縮条約成立で奄美大島要塞の全ての砲台建設が中止となるものの、補助施設の工事は災害復旧費などの名目で継続。1923年には古仁屋に奄美大島要塞司令部が開庁した。奄美大島要塞司令部は現在の古仁屋高校の場所にあり、校門の石碑がその歴史を伝えている。

 

1941年6月の独ソ開戦に伴って国内要塞への戦備強化が発令され、同年9月には奄美大島要塞に重砲兵連隊や歩兵中隊、通信隊、憲兵古仁屋分遣隊などが派遣された。安脚場砲台は第4中隊の管轄で、車輪式10糎(センチ)加農(カノン)砲4門が配備されたと記録がある。

 

海軍も加計呂麻島の瀬相に「奄美大島防備隊本部」を置き、同島三浦に海軍施設部、大島本島側の須手に航空隊古仁屋基地を設置した。安脚場にも海軍施設が建設され、防備衛所、15糎砲4門などが配備された。

 

安脚場戦跡の北端には海軍の探照灯台座跡と防備衛所跡がある。防備衛所の主目的は水中補音器で潜水艦などの海峡侵入を察知し、水中の機雷を管制爆発させて阻止すること。同様の設備が加計呂麻島西端の実久集落沖の江仁屋離島、大島側西端の曽津高崎にもあったという。

 

同戦跡には旧陸軍が1921年に建設した砲座の遺構が南北に4基あり、南端の第一展望所では幅2・5㍍、長さ10㍍のコンクリート造の胸墻(きょうしょう)を観察できる。最終的にこの砲座に陸軍の固定式火砲は配備されなかったようだが、町の調査では、南側の2基の胸墻の下に幅、高さともに約1・5㍍の空洞が確認された。

これは陸軍本部が徳之島へ移転した終戦間際、海軍が砲座跡を連絡通路、または、爆撃から武器や人を守る掩蔽壕(えんぺいごう)として利用するために掘った可能性があるという。また、この近くで機銃陣地らしき遺構も見つかった。

 

瀬戸内町教育委員会・埋蔵文化センターの鼎丈太郎学芸員は「奄美地域でも空襲が増えた太平洋戦争末期、どうにか空からの攻撃に対抗しようとしていたのではないか」と分析する。

 

安脚場集落の隣にある渡連集落の出身で、生間でレンタカー店を営む福山哲也さん(87)は、1944年頃、上空から機銃掃射するアメリカ軍の攻撃機に対し安脚場の海軍が応戦するのを見ていた。「アメリカの機銃は『バラバラッ』という音。(海軍がいる)東の山の方から味方が『ポンッポンッ』と飛行機を狙う音が聞こえた。音が違うのですぐ分かった」という。

 

戦闘が激しくなる前、福山さんは友人たちと海軍基地に忍び込み、大砲を見たこともある。「移動式で、兵隊さんは馬3頭引きと言っていた。(前に安脚場にいた)陸軍は怖かったけどあの頃は海軍しかいない。(子どもに)気付いても兵隊さんは何も言わなかった」

 

町が3月に発行した調査報告書「瀬戸内町の遺跡3」によると海軍の砲台は現在の公園よりさらに南西側にあったと想定されており、福山さんが見た「大砲」が具体的に何だったのかは確認できなかった。陸軍撤退後、同軍の加農砲の所在は分かっておらず、少年だった福山さんが見たものはこの加農砲だったのかもしれない。

1941年に建設された旧日本海軍の防備衛所=12日、瀬戸内町