40人のみ霊慰める 惨劇の防空壕跡で慰霊祭 奄美市笠利町

2022年08月07日

地域

焼香する慰霊祭の参列者=6日、奄美市笠利町

広島に原爆が落とされた1945年8月6日、奄美大島でも戦争による惨劇があった。奄美市笠利町中金久の防空壕が米軍機に爆撃され、40人が亡くなった悲劇から77年目の同日、跡地で慰霊祭が執り行われた。島内外の遺族13人が参列し、み霊を慰めた。

 

場所は笠利公民館裏手の山裾。午後1時ごろに米軍機が襲来し、近くの青年学校の先生や生徒、地域住民らが犠牲になった。亡くなった半数以上は、1歳児を含む20歳以下で、多くの若い命が奪われた。

 

慰霊碑は1975年に遺族らが浄財を寄せ合って建立。同日は参列者一人一人が焼香し、慰霊碑に向かい手を合わせた。

 

学校の先生だった母を亡くしたという喜界町阿伝の晶貴(しょうき)輝也さん(88)は「当時、私は喜界島で母と離れて暮らしており、一緒に過ごした時間は長くなかったが、(私たちを)きっと心配していただろうと今になって親の思いが分かる。体調の都合でしばらく参加できなかったが、子どもが付き添ってくれて久しぶりにここへ来ることができた。本当によかった」と話した。

 

遺族会代表の里斉亮さん(45)は「ここで起きた惨劇を風化させず、若い世代に引き継いでいけたら」と語った。