沖縄復帰連載㊦ 離れて奄美を思う 島唄を支えに 奥田末吉さん(78)
2022年05月17日
社会・経済
身震いがし、涙があふれた。
那覇で開かれた奄美民謡大会で島唄を耳にした日のこと。奥田末吉さん(78)=糸満市、龍郷町出身=は衝撃を覚えた。懐かしい三味線の音色と哀愁を帯びた声に鳥肌が立った。
自衛隊の先遣隊として沖縄に移駐し、同郷の先輩と出会う機会が増え、沖縄奄美連合会の事業にも関わるようになっていたころだった。沖縄に来て初めて耳にした島唄。短い歌詞に込められた圧政に耐える奄美の先人の思い。嘆き。叫び。どうにもならないもどかしさ│。一度奄美を離れたからこそ気付いた奥深さだった。
沖縄本島で島唄を教えてくれる奄美出身者を探し、通い詰めた。うたえるようになると、ボランティアでいろんな施設を慰問し、うたうようになった。聴衆は沖縄の人のはずなのに涙を流す人々がいる。聞けば奄美の出身者だった。「歌詞や分からんば、節くゎが懐かしくてぃや(歌詞は分からないが、メロディーが懐かしくて)」と頬を拭った。
沖縄の日本復帰当時、沖縄にいた奄美出身者が一番求めているのが島唄であり、シマユムタ(奄美方言)の響きなのだと気付いた。
「出身者のためにも、沖縄の人に奄美に目を向けてもらうためにも、郷愁を誘うイベントを増やしたい」。連合会で数々の民謡大会を催した。会場には聴く機会に飢えていた多くの高齢出身者が訪れ、涙を流していた。
奄美の日本復帰から沖縄の日本復帰までの19年間。先人たちが奄美に対する感情をいかに抑えてきたのかを目の当たりにした。出自を隠して生き、沖縄の復帰を経てもなお、生まれ島のことを語るに語れない人々がいる。追い始めた先人たちの足跡。その先で見えてきた出身者の「無言の歴史」のやるせなさ。事情が分かるようになるにつれ、胸が締め付けられた。
今年、沖縄暮らしも50年となった。沖縄で決まってうたうのが「ヨイスラ節」だ。
わんやくぬ島に/親兄弟(うやはろじ)おらぬ/わん愛(かな)しゃしゅん人(ちゅ)どぅ/親兄弟(うやはろじ)
(島を離れて遠い親戚よりも身近な友達が親兄弟以上です)
自衛官出身では珍しかったPTA会長を務め、糸満市民の支持を得て糸満市議会議員も1期務めた。中には「どうせいつか奄美に帰るんだろう」という気持ちで見てくる沖縄の人もいた。大事にしたのは「自分もウチナーンチュ(沖縄人)なんだ」という気持ち。やがて出会いにも恵まれ、親しくなった沖縄の先輩から「戦後は奄美の人のおかげで生き延びられたんだよ」と激励されることもあった。
連合会長として、シマサバクリ(奄美に関することへのお世話)に余念がない。奄美で大きな災害やイベントがあればすぐに義援金や寄付を送る。胸にあるのはふるさとへの感謝の念だ。「これだけの自然、伝統文化をつないできてくれた先人への感謝。島に住んでくれて、守ってくれている人への感謝」
島を離れ、自分たちは何もできない。けれども何か手伝えることがあるなら。そう思い奄美と沖縄の懸け橋になっている。
(柿美奈)