国立公文書館に開聞丸の資料 沈没の状況や死亡者名簿 菊池さんが初確認

2024年01月13日

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国立公文書館で開聞丸関係の資料を確認した菊池保夫さん

開聞丸関係の資料=菊池さん提供

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年2月、徳之島飛行場の建設に従事する作業員らを乗せた「開聞丸」(60トン)が与論島を出港して徳之島に向かう途中、与論と沖永良部島の中間で米軍機に撃沈され、24人が犠牲になった「開聞丸事件」。沈没当時の状況や死亡した24人の名簿が国立公文書館に保管されていることが、このほど長野県の研究者によって初めて確認された。戦争中の悲劇を物語る貴重な資料だ。

 

国立公文書館で資料を確認したのは長野県松本市の公務員菊池保夫さん(53)。大学の卒業論文で「太平洋戦争中の奄美諸島」を調べて以来、「戦争と奄美」を研究。奄美郷土研究会報などに論文を寄稿している。ブログ「奄美諸島の沖縄戦」も開設し、関心を集める。

 

先月22日、奄美諸島に駐留した日本軍の留守名簿が多数所蔵されている国立公文書館で「独立混成第64旅団司令部留守名簿」に目を通していたところ、巻末に「開聞丸」の沈没状況や死亡者名簿などの資料があることに気付いた。「開聞丸については調べたことがあるが、生存者の証言などがあるだけで公的資料はまったくなく、初の公的な資料なので驚いた」と菊池さん。

 

資料には死亡した24人の住所と氏名のほか、当時の状況について次のように記録されている(概略)。

 

「与論村の勤労報国隊員35名外若干名を乗せた開聞丸は茶花港を出帆、沖永良部島に向かって航行中、11時30分ごろB241機が来襲、50メートルの超低空から銃爆撃され、爆弾が機関部に命中、船体は大破、沈没する。報国隊員35名中、林先住(注・人名)以下23名は銃爆撃により戦死」

 

菊池さんによると、開聞丸は枕崎水産学校の木造実習船だった。45年2月18日、徳之島飛行場の建設工事に向かう徴用作業員らを乗せて、与論島から徳之島へ向かう途中、与論の北西16キロ付近で米軍の哨戒爆撃機PB4Yの攻撃を受けて沈没。生存者の証言では、同船には作業員47人と兵隊2人が乗船していたとされる。

 

「与論町誌」は「昭和20年2月18日、徳之島飛行場人夫として徴用され、開門丸(注・開聞丸のこと)20トンに乗り込んだ人たち34名が死亡した」と記す。菊池さんが確認した公文書館の資料によると犠牲者数は与論23人、和泊1人の計24人。与論町誌に掲載された戦没者名のうち、開聞丸関係者と見られるのは23人で公文書館の名簿と一致する。

 

菊池さんは「開聞丸の沈没は富山丸や対馬丸ほど知られていないので、多くの人がこのような戦争の悲劇があったことを知るきっかけになればと思う。開聞丸の資料は、戦後おそらく遺族側から何らかの動きがあり、それを受けて作られたのではないか」と話している。

 

徳之島の陸軍飛行場は、天城町浅間の徳之島空港東側に南北の滑走路、隣接する岡前に掩体壕(軍用機の格納庫)などを整備するもの。1943(昭和18)年11月から着工し、翌年3月には長さ1500メートル、幅60メートルの滑走路が完成。3カ月後から飛行機の離着陸が始まった。45年3月下旬からは攻撃の前線基地を担い、沖縄特攻の第一陣として11機が出撃した。「天城町誌」は飛行場建設に当たり軍から「亀津町450人、伊仙村600人、東天城村430人、天城村800人の計2280人の作業員を出すよう命じられ、昭和19年1月からは沖永良部、与論両島より300余名の労務者が応援に来た」と記す。