電力の祖国復帰から50年 電力の節目に手作り記念誌 大島電力、九電OBの高尾野さん

2023年02月28日

地域

電力事業の節目に、記念誌を手作りした高尾野さん=2月3日、奄美市名瀬

2023年は1973年の九州電力と大島電力の合併に伴う「電力の祖国復帰」から50年、大島電力の発足から70年に当たる。両電力会社の合併後、奄美の電力事情は格段に改善した。電力の変遷を見続けてきた生き証人がいる。高尾野壽さん(90)がその人。高尾野さんは節目を見据えて「あの日… あのころ…」と題した冊子を手作りした。電力会社の歩みに加えて奄美の出来事や暮らし、思い出を添えた。人間味あふれた記念誌となっている。

 

高尾野さんは1933年奄美市笠利町外金久の出身。大島高校を卒業後は近畿大学で学び、61年1月、大島電力に入社した。93年3月、九州電力奄美営業所長を最後に定年退職。32年にわたって奄美、県本土の電力供給に尽力した。

 

「奄美の電力史」(九州電力奄美営業所発行)によると、奄美の電力供給は1911(明治44)年9月、大島電気が名瀬村に供給したのが始まり。九州配電(九電の前身)、米軍の電力事業の接収などを経て、奄美の日本復帰と同じ53年に大島電力が発足し、電力事業が本格化した。

 

電力の祖国復帰郡民総決起大会=1969年8月6日、名瀬小学校(「奄美の電力史」より)

大島電力は名瀬の聖心教会に近い、現在の時計店付近にあった。高尾野さんが勤め始めた頃は停電が多く、「停電会社」とやゆされたことも。料金は本土に比べてはるかに高い。日常的に苦情を言われた。山中で作業をする際はハブ対策の血清を持参した。感電事故も目撃した。盗電も多かった。

 

ある日のこと。屋仁川通りの料亭の電気料金が未払いとの理由で、先輩から「供給を停止してこい」との命令を受けた。先輩は料亭の外で待っている。おかみさんは「結婚式だから電気を止められると困る。あすまで待ってほしい」と懇願した。先輩は「停止しろ」と譲らない。高尾野さんは料金をもらったことにして停止しなかった。料亭は高尾野さんの結婚式の場所でもあった。

 

台風の後は不眠不休で復旧作業をした。大きな台風が来ると、1週間停電することも多かった。現在のように電気が使えるのが当たり前の時代ではない。ようやく電球が点灯すると、「住民は『ハゲハゲ、生きている心地がする』と喜んでくれた。今はエアコンが効いた部屋で台風情報を見ている時代。随分、変わった」(高尾野さん)。

 

電気料金の高さは奄美群島のみを対象としたことによる経営規模の小ささが原因だった。このため、「電力の復帰なくして真の復帰なし」との声が沸き起こり、国や県への陳情が繰り返された。1969年8月6日、名瀬小学校校庭で「電力復帰郡民総決起大会」が開かれ、73年3月1日、大島電力は九州電力と合併して群島民の悲願が実現。日本復帰から20年が経過していた。

 

合併後、電気料金は本土並みとなり、電力供給力は飛躍的に向上した。高尾野さんは九電社員となり、県本土や熊毛地区でも勤務した。旧大島電力社員として「『奄美』の二文字を背負った思いで業務に励んだ」と振り返る。

 

今年は奄美の電力事業にとって大きな節目の年。冊子を手にしながら高尾野さんは「これから化石燃料から風力など、自然エネルギーが増加していくだろう。離島の電力を維持するため、関係機関にはこれからも支援をお願いしたい」と願った。