あの日、名瀬市民は見た 60年前の記録と記憶 海自機らんかん山墜落

2022年09月03日

社会・経済 

墜落した哨戒機が輸送した血液を投下する予定だった「×」印の場所辺りを左手で、らんかん山(中央右)の墜落場所を右手で指さす本田さん=2日、奄美市の名瀬港中央ふ頭付近

1962年9月3日、救急患者のための血液を県本土から輸送してきた海上自衛隊の哨戒機が名瀬市(現在の奄美市名瀬)の「らんかん山」にぶつかり矢之脇町側の斜面に墜落した。きょうは事故発生後60年の節目。本紙記事や目撃、被災者の証言から当時を振り返り、改めて惨事の記録と記憶をたどる。

 

■ごう音、炎上、13人死亡

 

当時の本紙報道や目撃証言などによると、午後4時50分ごろ、海自P2V対潜哨戒機が名瀬に飛来した。哨戒機は搭乗員12人と県立大島病院で手術に使う輸血用血液を搭載。当時、奄美大島は空港がなく、哨戒機は名瀬港中央ふ頭に血液を投下する計画だった。

 

北側から低空飛行で名瀬湾に進入した哨戒機は、投下地点へ回り込もうと市街地上空で右旋回を開始。その途中、機体の一部がらんかん山の中腹(標高30~40㍍)にぶつかり、墜落した。機体は「ドーン」というごう音とともに炎上。搭乗員全員が命を落とした。

 

この事故に伴い、機体の破片や燃料が北西側の山裾にある住宅密集地に飛び散り、一帯は火の海と化した。発生翌日時点で、矢之脇町の37世帯161人がり災(名瀬市調べ)。逃げ遅れた住民1人が死亡し、けが人も複数。突然の惨事は市街地を騒然とさせた。

 

■超低空飛行で迫る哨戒機

 

「あれは小学5年生の頃。夏休み明けの月曜日だった」。奄美市名瀬柳町の本田親義さん(70)は当時、大学生の兄を見送るため名瀬港中央ふ頭にいた。この日、岸壁の路上には大きな「×」印があり、不思議に思っていた。「血液投下地点の目印だと、後から知った」

 

兄を乗せた旅客船の出港予定は午後5時。その少し前、名瀬湾口にある海上の岩「立神」方向から哨戒機が迫ってきた。「突然、大きな飛行機が現れ、しかも超低空飛行だったので何事かと思った」。哨戒機は右旋回に入りながら、中央ふ頭上空を通過した。

 

本田さんは哨戒機を見上げた直後、らんかん山から響く爆発音に驚いた。「一瞬の出来事で、すぐに状況を理解できなかった」。本田さんがらんかん山近くにたどり着くと、見えたのは方々から上がる火柱と行き交う警察や消防、被災者、やじ馬たち。徐々に「墜落した」ことが分かってきた。

 

哨戒機が墜落した当時の新聞記事を見ながら、自身の経験を語る中山さん(右)=1日、奄美市名瀬

■墜落直前「手を振った」

 

「忘れもしない。まさか飛行機が落ちるなんて思いもせず、とにかく怖い出来事だった」。同市名瀬矢之脇町の中山和子さん(91)は当時、用事を済ますため長男=当時(4)=を連れて自宅を出た少し後、らんかん山近くの路上から墜落直前の哨戒機を見上げた。

 

記憶に残るのは、開いた哨戒機のドア付近に見えた搭乗員たちの姿。「『わあ、すごい』と手を振った」。その直後、山からごう音が聞こえ、山裾から火が上がった。急いで帰ると自宅はすでに半焼。近隣も多くが燃えており、辺りに哨戒機の破片が散らばっていた。

 

「身近に起きた事故で多くの命が失われた」。中山さんは事故の翌年以降、しばらく慰霊登山を続けた。「当時を知らない世代が大半だろうが、この経験を話したり、聞いたりする機会はない」と語ったのは本田さん。事故から60年経つ今、記憶の風化に懸念を抱く当時の経験者もいる。

 

◇きょう、名瀬で慰霊式◇

 

この事故を伝承するため、奄美大島青年会議所は3日、同市の名瀬小学校体育館で慰霊式を行う。開式前の午前10時半ごろには、慰霊飛行も予定されている。