戦況悪化、地上戦も視野 「遠い国ではなく、身近に」 奄美大島の戦跡

2022年08月16日

社会・経済 

遺跡の一部が公開され、訪れる人に戦争の歴史を伝えている安脚場戦跡公園=12日、瀬戸内町

太平洋戦争で劣勢に立たされた日本は1943(昭和18)年9月、本土防衛のための「絶対国防圏」を設定、航空基地防衛に重点を置き、沖縄各地と喜界島、徳之島にも飛行場が建設された。44年3月、沖縄第32軍が組織されると、奄美大島要塞(ようさい)司令部はその指揮下となり閉庁。陸軍の本部は徳之島へと移された。

 

44年6月、米軍は日本攻略の最重要拠点の一つだったマリアナ・パラオ諸島への侵攻を開始した。サイパン島、グアム島、テニアン島などで激しい戦闘があり、サイパン島では陸海軍の約4万3千人のほか在留邦人約1万2千人が戦死、または自決。900人を超える島民が犠牲になったとされている。

 

44年7月、日本政府は奄美群島と沖縄県の子どもや高齢者、女性らを疎開させる方針を決めたが、既に制空・制海権を失っている中、目的地にたどり着く前に攻撃を受け沈没した船も多かった。

 

8月21日に学童や一般疎開者を乗せて那覇港を出港した対馬丸は、翌日悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。判明分だけで学童約800人を含む1400人以上が犠牲となった。多くの遺体と犠牲者が奄美大島に流れ着き、宇検村の船越(フノシ)海岸では住民が遺体の埋葬と生存者の救助に当たった。同海岸には2017年に慰霊碑が建立されている。

 

9月にはパラオ諸島侵攻が始まった。激しい戦闘で日米双方に多数の死者が出た。本土との補給線は断たれ、日本兵の多くが餓死した。マリアナ3島は日本攻撃の拠点となり、秋以降、日本本土への空襲が本格化する。

 

同時期、大島海峡には海上特別攻撃を目的とした海軍第18震洋隊(加計呂麻島・呑之浦)や陸軍海上挺進第29戦隊(同・阿鉄)が配備される。45年3月26日、米軍が沖縄本島西の慶良間諸島へ侵攻、4月1日には沖縄本島に上陸した。

 

奄美大島側西端の西古見砲台跡では、終戦間際に海軍が設置したとみられる機銃陣地のほか、戦車などが軍道を利用できないように地面を幅約2メートル、深さ約1~1・5メートルほど掘り下げた「戦車壕(ごう)」が複数見つかっている。沖縄の状況を受け、奄美群島でも地上戦が予測されていたことが遺跡からうかがい知れる。

 

この頃、加計呂麻島にいた福山哲也さん(87)は軍の指示で大人たちが安脚場集落の南にあるタンファチヤマに防空壕を掘っているのを見ている。福山さんは、「大人たちが『(米軍が)上陸したら住民は兵隊と一緒にここに上がってくる、隊長が区長へ手りゅう弾を渡すから』と(話していた)」と証言。「大人はそれがどういうことか雰囲気で分かっていたようだった。(自分も)『あっそう、ここでみんなと一緒に死ぬんだ』と思った。不思議と怖さはなかった」と回想した。

 

手りゅう弾に関して、他にも証言がある。加計呂麻島南側の西阿室出身で終戦時国民学校6年生だった直山秀久さん(89)は、「初等科を代表して兵隊から手りゅう弾を渡された。高等科の人も(渡されていた)」と語った。

 

福山さんがタンファチヤマで大人たちの話を見聞きしてからしばらく後、日本は終戦を迎えた。

 

太平洋戦争終結から今年で77年。戦争体験者による伝承が難しくなる中、瀬戸内町は近代遺跡を通じて戦争の記憶・記録を次世代へ継承しようと、特に重要な6カ所(佐世保海軍軍需部大島支庫跡、西古見砲台跡、安脚場砲台跡、手安弾薬本庫跡、第18震洋隊基地跡、大島防備隊本部跡)の国史跡指定を目指している。

 

町教育委員会・埋蔵文化センターの鼎丈太郎学芸員は「遠い国、過去の話ではなく、身近で戦争があったことを遺跡が伝えている。状態もよく、どのように戦争が始まり進んでいったかを知る重要な資料。平和について考えるきっかけとして活用していけたら」と話した。