「復帰の父」の功績継承 全児童に偉業知る機会提供へ 伊仙町面縄小学校
2018年12月25日
子ども・教育
奄美群島が日本に復帰して65年を迎えた。群島民の多くは復帰を知らない世代となり、復帰の記憶の風化が懸念されつつある。そんな中、「日本復帰の父」泉芳朗の母校伊仙町立面縄小学校(帖地博之校長、児童126人)では、地元の偉人の功績を継承しようと、学校挙げての取り組みを進めている。
泉芳朗(本名・泉俊登)は1905(明治38)年、同町上面縄生まれ。笠利村(現奄美市笠利町)の赤木名小で教員人生をスタートさせ、26(大正15)年には面縄小に赴任した。
戦後、奄美が米軍政下にあった51(昭和26)年、奄美大島日本復帰協議会議長に就任して復帰運動の先頭に立った。後に名瀬市長も務めた。詩人としても知られる。
面縄小では総合的な学習で、徳之島の宝や偉人について学ぶ時間を設定している。郷土史を学ぶコーナーを校舎内に設置し、多くの学校行事で泉芳朗が作詞した校歌を全校児童で斉唱する。2016年の学校創立120周年記念式典では、泉芳朗を題材にした創作劇を演じた。
本年度は小学4年生26人が総合的学習ので、各児童が選定した徳之島の宝について学んだ。
西美玲さん(10)、竹井野乃花さん(10)、稲富悠凜さん(9)の3人は泉芳朗を題材にした。「奄美群島をどうやって日本に復帰させたのか知りたかった」「地元の先輩の偉業を知りたい」という動機だった。
3人は学校図書やインターネットなどを活用し、資料を集めた。そして10時間かけて、教育者としての側面や日本復帰功労者、詩人、政治家としての泉芳朗の歩みと功績を「泉ワールド新聞」としてまとめた。
成果は11月、学習発表会で友だちや保護者に発表した。
竹井さんは「日本国旗を掲げて米軍から怒られても、日本復帰するために頑張ってくれた」、西さんは「いろんなところで働いて、奄美群島民の命を守ってくれた」、稲富さんは「こういう人が面縄出身ですごいと思った」とそれぞれ感想を述べた。
同小近くには泉芳朗の墓や2017年に国史跡に指定された面縄貝塚があるなど郷土学習の素材は多い。その一方で、郷土を学ぶ現在の総合的な学習の題材は各児童の選択性で、約半数の児童が島内で広く行われている闘牛を選択するなど、面縄独自の素材が十分に生かし切れていない面は否めない。
「泉ワールド新聞」を発表した児童3人は「もっと多くの人が泉芳朗のことを知ってほしい」とも話した。
帖地校長(56)は「面縄は泉芳朗の生地で、郷土教育の素材の宝庫。これらを教材化してカリキュラムを編成し、全ての児童が学習する機会を設けることで郷土の先人や歴史に関心を持たせ、継承につなげたい」と力を込めた。