名瀬はナゼ発展? 仮屋敷が都市化の起点 ブラ名瀬歩き
2020年01月02日
地域
鹿児島県奄美大島随一の繁華街・旧名瀬市街地。官公庁が置かれ商人が集い、にぎわいのある都市文化を形成してきた。現在も海岸を埋め立て土地造成するマリンタウン事業が進む。名瀬はなぜ発展をとげてきたのだろう。市街地の土地区画整理事業に長く携わってきた、奄美郷土研究会員の岩多雅朗さんに名瀬の街を案内してもらった。古い地図を手に、いざ出発だ。
■仮屋敷通り
「ここは仮屋敷があった通り。僕はここを『仮屋敷通り』と呼びたい」
出発地点に選ばれたのは矢之脇町の大島石油本社の近く。県道79号線から一本山側に入った小道だ。江戸時代に「仮屋敷」と呼ばれる薩摩藩の出先機関、今でいう県大島支庁が置かれた場所だという。岩多さんによると、名瀬の町の発展はここが起点だ。
手元には1830年頃に描かれた地図「琉球嶌真景(とうしんけい)」(名護博物館所蔵)の絵図。岩多さんは「實久仮屋」~「笠利仮屋」の場所を、今の鹿児島刑務所大島拘置支所周辺~鹿児島地方検察庁名瀬支部辺り、と指差し教えてくれた。
「残念ながら屋敷の痕跡はもう残ってない。でもこの道は、この地図当時の道だと思う」と岩多さん。200年前の島民の姿を想像しながら、一歩一歩踏みしめて歩くと歴史のロマンが膨らむ。
■白糖工場跡
鹿児島地方裁判所名瀬支部の辺りで岩多さんが立ち止まった。「ここが白糖工場跡。奄美の近代化の起点となった場所とも言えるよ」。教えてくれたのは有村商事の倉庫だ。敷地内には、当時の石垣が残る。
白糖工場は1865年(慶応元年)~66年に建設。総監督兼機械技師のウォートルスと、製糖技師のマッキンタイラーが中心となり、1868年(明治元年)まで製糖していたとされている。
なぜここに白糖工場が? 岩多さんは「砂糖を管理するのに、仮屋が近いと便利だったのではないか。海も近く、輸送運搬には最適だしね」と回答。仮屋敷ができたことで、商いが発達していく過程が見えてくる。
■本町通り
最後に歩いたのは、入舟町の楠田書店~ホテルウエストコート奄美~鹿児島銀行大島支店。岩多さんは「ここは本町通りといって、明治後期から昭和にかけてのメインストリート」と教えてくれた。
白糖工場ができ、名瀬に移り住み商売を始める寄留商人たちが増え、繁華街を形成。岩多さんが旧土地台帳と登記簿から注目するのは、1888(明治21)年ごろに始まった、本町通り沿いの沼地の埋め立てだ。
現在、鹿銀大島支店がある一帯は、かつては沼地。ここを埋め立てて、1911(明治44)年に大島警察署(現奄美警察署)が建てられた。「ここを埋め立てたことで、伊津部地区との交流が拡大し、一気に都市化が進んだ」と岩多さんは話す。
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今、名瀬市街地は開発が進み、新たな姿へ変貌を遂げようとしている。岩多さんはその街の変化を生き物に例える。「土地台帳や字絵図は街の『履歴書』。人に履歴書があるように、街にも履歴書がある。それをひもとけば、街の本来の地形や時代のすうせいが浮かび上がる」。古きをたずね、新しきを知る―。未来の名瀬はどんな姿になっているのだろう。