阪神・淡路大震災25年 靴業界に61年、佐藤徹義さん
2020年01月15日
地域
阪神・淡路大震災の発生から17日で25年を迎える。発生当時、戦後最大の惨事となった大災害。阪神地域に多く住む奄美出身者も甚大な被害を受けた。その困難を乗り越えて歩み続ける出身者を紹介する。
「人との縁に恵まれた」―。そう語るのは、奄美市笠利町用安出身で、神戸奄美会・常任顧問の佐藤徹義さん(80)=神戸市須磨区。〝第二のふるさと〟にしっかりと腰を据え靴業界で61年生き抜いてきた。
佐藤さんは大島北高校を卒業し、1959年に奄美を離れ神戸市のケミカルシューズ(合成皮革靴)の街・長田に移り住んだ。靴職人の下で働いた後、営業なども経験した。島を出て10年がたったころ、一念発起して靴の革などを裁断する会社「佐藤裁断」を立ち上げた。
ケミカルシューズの製造の中心はメーカーと呼ばれる製造卸。メーカーが裁断や縫製、内職などの加工を各業者に外注し、最終的に各パーツを組み立てて製品に仕上げている。佐藤さんの会社は3年目から軌道に乗り「最盛期は8人の従業員を使っていた。14、15台の裁断機をフル稼働させた」という。
周囲に気を使うことなく島の方言で語り合えることが楽しく、神戸奄美会や近畿笠利会など郷友会活動にも積極的に参加した。大島北高の卒業生で組織する関西前田ヶ丘会の初代会長も務めた。「当時は言葉や食文化などの違いから差別されることも多かった。そんな中で奄美出身者のつながりは心強かった」(佐藤さん)と話す。
そんな充実した生活を送っていた25年前、佐藤さんを震災が襲う。
「家族は全員無事だったが、とても怖い思いをした。自宅は半壊し、どうやって動いたのか冷蔵庫が玄関まで飛び出していた。よりどころだった(郷友会で建設した)神戸奄美会館も焼けてしまった」。自宅近くにあった仕事場が入るビルも全壊したが、一階部分だったことと火が出なかったことが幸いした。
佐藤さんは「高価な裁断機に被害がなく、8台あった機械と材料を全部持ち出すことができた。出火していたら会社を畳んでいたかもしれない」と思い起こす。
仕事を再開しようと場所の確保に奔走していると、母親が徳之島出身の大手メーカー社長の好意で、同社の引っ越し先の建物内に間借りすることができた。「とても助かった。あちこちで建物が壊れ、当時はどこの会社も仕事場を探していた」と振り返る。
被災した会社の多くが操業不能に陥り、生産地が神戸から海外へと徐々にシフトしていった。その後も安い中国製品との競争や不況の影響などで倒産が相次ぐ中、佐藤さんの会社は生き残っていく。
4~5年前に現在の神戸市長田区神楽町へ仕事場を移転し、これを機に、おいの勝嘉さん(68)に代表を譲った。一線を退いた佐藤さんだが「目の黒いうちは頑張るで」と今も現場に立ち続けている。
「震災を経て、私は人との縁に恵まれていたとつくづく感じる。苦しいときにこそ人との絆、信頼関係が大切なんやと。メーカーの社長さんたちとのつながりが私を助けてくれました。島の郷友会で学び培った人との深い付き合い方が良かったんやと思うんですわ」