【つなぐ戦争体験】(中) 呼べなかった「お父さん」 戦地から届いた父の遺書
2022年11月23日
特集【コラム】
伊仙町出身で元高校教諭の吉見文一さん(81)は現在、鹿児島市遺族会の事務局長を務めている。父は吉見さんが生まれて間もなく出征し、帰らぬ人となった。「だからね、私は今まで一度も『お父さん』と呼ぶことがなかったんですよ」。そんな吉見さんが遺品を通じて父の思いに触れたのは大学生だった頃。初めて母から受け取った父の遺書に、吉見さんは言葉を詰まらせた。
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1941年、名瀬市(現奄美市名瀬)の県大島支庁に勤務していた父・元明さんは、吉見さんが生まれてすぐに出征。佐世保鎮守府第5特別陸戦隊に所属し、パプアニューギニアのサラモアで連合軍と戦闘。43年に32歳で亡くなった。母・玄さんは郵便局で働きながら女手一つで吉見さんを育てた。
父の遺書の存在を知ったのは大学生の頃。渡すタイミングを考えていたのか、ある日、母から手渡された。そこにはこう記されていた。
文一
コレガオ前ニ出ス父ノ始テノペンデアリ始テノ便リナンダガ。(中略)大キクナッテモネ、自分ニハ父ガ無イと悲観スル事ハ一ツモ無イ。オ前ニハ立派ナ父ガアル。(中略)何時モ文一ノ将来ヲ見守テ居ルノダカラ。
涙で最後まで読めなかった。
後に、母へ送られていた遺書も目にした。
私ハ笑テ立派ナ戦死ヲスル。タダ一ツ最後ニオ前ニオ願ヒヲスル。文一ノ事ダ。文一ノ事ダ。(中略)文一ニ悲観ヲ感ジサセナイ様ニシテクレ。(中略)タトヘドンナ事ガアツテモ、僕ハオ前ト文一親子ノ幸福ヲ神トナリ見守テ居ルノダ。
父の直筆の文字。自分をいかに大事に思っていてくれたかが伝わった。
母も12年前に93歳で他界。遺品を整理していると、見たこともなかった父の遺留品が次々と出てきた。中に、乳児の頃の自分のモノクロ写真が出てきた。父が戦地でも大事に身に着けていたのだと知った。
遺品の中に、父が所属していた中隊長からの手紙も出てきた。父の最期の様子が記されていた。
「八月十七日早朝、吉見兵曹ハ見張ノ任務遂行中、腹部ニ一弾ヲ受ケ、直チニ病室ニ収容手当ニ務メタルモ約一時間後遂ニ戦死セラレタリ」「実ニ惜シイ人物ダツタト言フノ外小官ノ気持ヲ表ハス手ハアリマセン」
人生の岐路で、相談できる父がいなかったことはすごく寂しかった。しかし、気丈だった母はもっとつらかったに違いないと思った。多くのことを語らなかった母が大切にしていた遺留品。「つらすぎてふたを開けることができなかったんだろう」
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2011年、70歳を迎えた吉見さんは父が最期を遂げたパプアニューギニアに初めて行くことができた。慰霊祭で父を思い、初めて大きく声に出した。
「お父さん」│。