「疎開小屋」記憶たどる 末広町から見えた立神 戦争体験 才田一男さん(83)
2022年08月15日
地域
奄美市名瀬井根町にある高千穂神社の社(やしろ)の裏。普段は人が足を踏み入れないその裏山に、太平洋戦争末期、才田一男さん(83)=奄美市名瀬=と叔父一家の「疎開小屋」があった。当時の記憶を探りながら現地を訪れた才田さん。「くんぼてかい…(この辺りかな)」。今は草が生い茂り当時の面影は残っていない。
才田さんが6歳だった1944(昭和19)年。家族と叔父一家は、空襲から逃れるため末広町の自宅から疎開小屋に移った。
高千穂神社ぬ後ろぼてなんてぃ疎開小屋ちあてぃ、もりっくゎしりばいかんかなち、みんな、あんぼてち逃げとぅたんわけ。(高千穂神社の後ろ付近に疎開小屋があって、死んではいけないと、家族は皆そこに逃げていた)
45年4月20日の名瀬空襲は市街地の90%を焼失した。同年8月15日、疎開小屋で終戦を知り自宅に戻った。奇跡的に家は焼けずに残っていた。喜びもつかの間、家の縁側から海の方角を見て絶句した。
はあ…立神ぬにゃあってぃ…。(立神まで見える)
空襲で焼け野原と化した市街地。自宅から沖の立神まで、視界を遮る家屋や建物が何も残っていないのだ。幼いながらに、驚きで言葉も出なかった。
戦中戦後で一番苦しかったのは空腹だ。忘れられない記憶がある。
畑なんてぃ、トンぬうらっとぅたんかな、うんトンば、わんやよーりっくゎ掘てい、かしし、うりばガッパイち言うたんちょ。「トンガッパイ」。(畑に芋が植えてあったので、その芋をそっと掘って盗んだ。いわゆる「芋泥棒」だ)
服に隠して持ち帰り、芋の皮を歯ではぎ取り、生のまま、ガリガリかじって食べた。
終戦直後の名瀬には物乞いもいた。ガラスの器や空き缶を手に「もんがくんしょれ~もんがくんしょれ~(食べ物を下さい)」と言って各家庭を回っていた。
おっかんは「で、で、で」ち缶をゆすいでご飯やトンを入れて持たしよった。(母は「どれどれ」と言って缶を洗い、飯や芋を入れてあげていた)
追い返す家庭もあったが、食糧難の時代、島では皆で食べ物を分け合って暮らしていた。
米軍統治下となり米兵が駐留すると、当時海岸だった現在の御殿浜公園付近には、米軍のごみが大量に捨てられるようになった。
「おいっ!ぐみぬちゃっと」ち、探しちいじゃんわけ。ごみあさり。(「おい、ごみが来たぞ」と言って探しに出かけたものだ)
容器入りのチーズ、ビスケット、キャラメル、チョコレート…。それらのおいしかったこと。
開けられとらん缶くゎのあたん時んきゃ、ほらしゃぬほらしゃぬ。みんなで食べたんちょ。(開いていない缶を見つけたときはうれしくてうれしくて。みんなで食べた)
終戦から77年。市街地には高い建物が並ぶ。もう末広町から立神を見ることはできない。
名瀬は都会なたんやー、ちしみじみ思う。戦争の時はどうかしたらすぐ死ぬ時代。でも今はきょうも、あすも、あさっても、生きておられるから、平和の有り難みを強く感じている。うっちゅ同士だかどぅくさし、長生きしんにしせらんばいかん。(老人たちは元気で長生きしないといけない)
(柿美奈)