語られぬ歴史 先人の足跡を追って 沖縄奄美連合会、奥田末吉さん(78)

2022年05月15日

社会・経済 

糸満市の自宅で沖縄奄美連合会の歴史を振り返る奥田さん=4月27日、沖縄県糸満市

「『ようやく奄美んちゅと堂々と言える日がきた』とすごく喜んでいた顔が忘れられないのよね」

 

沖縄が日本に復帰した1972年5月15日。その直後に沖縄に移り住んだ奥田末吉さん(78)=糸満市、龍郷町出身=は、復帰以前から沖縄に住んでいた同郷者の表情を今も覚えている。

 

沖縄在住の奄美出身者でつくる「沖縄奄美連合会」会長。この会の設立経緯そのものが、奄美の日本復帰と深く関わりを持つ。

 

記録によると、奄美が日本に復帰した直後の53年12月28日、那覇市で復帰祝賀会があった。集った約600人には祝いの雰囲気はなく、沖縄での自分たちの身分はどうなるのかという意見が延々と続いたという。

 

同年12月1日、奄美の日本復帰が迫る中で、奄美に帰った方がいいか沖縄にとどまった方がいいか、「『パスポート申請やきゃししゅん』(パスポートの申請はどうしたらいいのか)と相談し合ったのが連合会の始まりだったんですよ」と奥田さんは言う。

 

奄美が先んじて復帰したことにより、沖縄に住む奄美出身者は銀行融資が凍結され、各種免許の取得、公務員試験や国費留学の受験ができなくなった。さらには不動産取得の制限や生活保護適用の差別を受け、被選挙権・選挙権の停止という状態となった。「非琉球人」として在留許可証明書の取得と常時携帯が義務付けられた。公職に就いていた奄美出身者は職を追われた。

 

厳しい制約に耐える中で迎えた沖縄の日本復帰は、出身者にとってやっと故郷のことを堂々と話せる時代が来たことを意味していた。

 

「奄美のシマンチュは語らない、書かない。記録がない」。沖縄に来た奥田さんの実感だ。親は子に奄美のことを語らない。奄美との行き来もできない時代があった。「沖縄の2世、3世の間には『親は大島だけど、わったーウチナーど(私たちは沖縄人だ)』という意識がある」と沖縄奄美連合会の存続を危惧する。

 

2013年。奄美大島で、沖縄に渡った出身者について語る機会があった。「会場からは質問攻め。奄美の人は当時の沖縄のことを知らないんだなと思った」

 

無理もない。奄美復帰前に沖縄に居住した出身者は5万人とも7万人とも言われるが実態はいまだによく分からない。偽装結婚、養子縁組、密航が相次いだ中、どれだけの奄美の人が沖縄に渡り、どんな苦労をしてきたのか、本当のことは誰も分からないと識者の間でも言われている。

 

「悲しい記憶もすべてが史実。歴史の風化だけは避けたい」と思う。

 

今年、沖縄が復帰50年を迎える節目に、多くのメディアから取材を受けた。中には、奄美の出身者が沖縄で受けた差別に焦点を当てて尋ねてくる社もあった。「歯を食いしばって生き抜いてきた先人たちを尊敬している。いまさらそこだけを掘り起こさなくてもいい」。奥田さんは口を閉ざした。

 

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沖縄の施政権が日本に返還されて50年。沖縄で暮らしてきた奄美出身者は、この半世紀どのように生きてきたのだろうか。復帰前後の沖縄の状況や50年間の変化、今沖縄と奄美に思うことを関係者に尋ねた。23年の奄美日本復帰70年へ向け通年企画として掲載していく。